2014年5月15日木曜日

「もしもし?俺だけど」「あなたは…神様ですか!?」

 別に本気で金を騙し取ろうなんて考えてたワケじゃなかった。まあ、だからって、罪の意識がまったくなかったワケでもなくて……。ようするにホラ、あれだ。犯罪者が取り調べでよく言う「ついやってしまった。今は後悔している」あんな感じだ。
 いや、マジで後悔してる。あまりにも暇すぎたから、知らない誰かをおちょくって遊んでやろうって思っただけなのに、それでまさか神様呼ばわりされるなんてな。最初はそういう名前のヤツと勘違いされてるのかと思ったけど、そうじゃないってことはすぐにわかった。
 慌てて切ったよ。そりゃそうさ。そういうヤバイ相手とは、関わらないのが一番だからな。
 ちゃんと非通知でかけてたから、それで大丈夫だと思ったんだ。切って、一息つきながら、ああ明日学校の友達にこのことをどんな風に話そっかなーなんて考えてた。そこに相手からかけ直してこられたんだから、マジでビビったよ。いったいどうやったんだろうな。今でもわかんねえ。
 ちなみに言うとかけ直してきた時、相手は非通知で、俺も自分が適当に押した番号なんて覚えちゃいなかった。だから一方的に相手に番号知られちまったワケだ。もう、どうしようもないよな。
 でもさ、相手が普通にオレオレ詐欺のことを糾弾してきたなら、まだ俺も冷静に対処できたと思うんだ。まあ、それでも十分にまずいんだけど、とにかくそれはそれとして。ソイツは、一度もオレオレ詐欺のことには触れなかった。
 声から察するにソイツは若い女だと思うんだけど、ソイツはとにかく、俺のことを神様って呼びやがるんだ。んで、助けてくださいだの、どうかお告げをだのと、電波なことを繰り返すんだ。俺も最初は謝ってたんだけど、まるで話が通じないもんだから、切った。したらまたかかってくんだもんな。ホント、やってらんねーよ。
 3回切ってリダイヤルされて、4回目は非通知拒否設定にしてもリダイヤルされたところで(ホントどうやってんだ?)、俺は諦めた。もともとこっちが悪いんだ。それに電話番号知られてるってことは、出るとこ出れば訴えることだってできるんだから、そうなれば親にもバレるワケで。こうなりゃできるだけ話を合わせて、相手の気が済むようにしてやろうと思った。
 で、話し始めたワケだが……
 そいつは思った以上に凝った設定を持っててさ。すぐボロが出るだろうと思ってたのに、かなり細部まで質問しても、しっかり答えやがる。その上、設定からして知るはずのないことはしっかり「わかりません」と答えやがるんだから徹底してるよな。きっと手元には文字がびっしり詰まった設定ノートがあるんだろう。
 俺が内心ゲンナリしつつも聞き出した情報によると、相手の名前はミギワ(たぶん本名じゃない)。年齢は13歳。住民1000人ぐらいの村で巫女をやっていて、神のお告げを聞くために祈りを捧げていたら、俺の携帯に繋がったらしい。なぜだ。
 話から察するに、かなり過去の世界の設定なんだろうってことはわかった。だが具体的に何年ぐらい前なのかってことは、どんなに質問を重ねてもわからなかった。代わりに、かなり閉鎖的な村らしいってことだけはわかったよ。都合のいい設定だよな。
「で? 助けてほしいって、どう助けてほしいんだ?」
『はい神様。実はわたくしたちは今、食糧不足で悩んでいるのです』
 なんともわかりやすい悩みだった。わかりやすくて、難しい。食糧問題って、過去から未来まで永久的に人類の課題として残り続けるんだろうな。
 そこにきてもまだ相手の出方を窺っていた俺は、「食べ物を〇〇に送ってほしい」とか言われるんじゃないかって邪推してた。いや、そんな遠回しな言い方で物品を要求されるワケがないんだけどさ。とにかく、どこから損害賠償の話に持ってかれるのかってビクビクしてたってことだ。ま、杞憂だったんだけどな。
 相手が欲しがったのは一貫して、お告げ――つまり、俺の言葉だった。話し相手が欲しかったんだな。凝った設定作るぐらいだし、よっぽど暇だったんだろ。俺も基本暇だし、そういう意味じゃ俺たちの利害は一致してる。裁判沙汰にされるよりは断然マシだと思ったよ。
 とは言え、ただ喋ればいいとも思えなかった。なにせここまでリアリティを追求するようなヤツだ。俺がいい加減なことを言えば、機嫌を損ねて気が変わるかもしれない。できるだけ相手の世界観に合わせて、相手が欲しがるような答えをしてやろうって思った。
 俺が最初に話したのは、農業についてだった。て言うのも、俺のおじさん家が農家で、俺もウンチクとかよく聞かされてたから、知識だけならそれなりにあったんだよ。まあ実践のほうはからっきしなんだけど、電話で話す分には問題ないし。むしろ俺が困ったのは、カリとかチッソとかこうじ菌とか、その辺りの言葉がまったく通じなかったことだな。
 ちなみに言うと、ミギワは普通に俺たちが話すような言葉を話してた。それだけ昔なら発音とか言い回しとか全然違うと思うんだけど、そこら辺はどういう設定になってんだろうな。巫女様の不思議パワーでなんとかしてんのかな。
 まあ仮に巫女パワーという設定だとして、だ。カリとかの言葉が通じなくて、年齢とか20cmとかそういう単位が通じたってことは、その巫女パワーは意訳はしてくれるってことなんだろう。まったく、笑えるほど中途半端な設定だよな。
 とりあえず栄養素とか微生物とかその辺は省いて説明することにした。そうすると必然、根拠のない話になっちまう。数学で言ったら公式だけ教えるようなもんだ。俺は丸暗記がニガテなタチなんで、ほんとは人にもそういう教え方はしたくないんだけど、その時ばっかりは仕方なかった。
 それでもミギワは、熱心に聞いてくれた。まるで本当に俺を神様として崇めてるみたいに、どんな話をしても素直に「はい」「はい」って頷いてくれるんだ。俺もついつい調子に乗っちゃってさ、最後のほうじゃ余計なウンチクまで話しちまったよ。ったく、恥ずかしいったらねえよな。
 その日は、農業に関することを一通り話し終えたところで、俺は眠くなってきた。ミギワの声もなんとなく眠そうな感じだったし、俺は終わりにしようって言った。ここではミギワも、俺が電話を切ることを承諾した。
『それでは、明日もどうかよろしくお願い致します、神様』
 俺は欠伸混じりに「んああ」って生返事して、電話を切った。
 その時のミギワの言葉がつまり、明日もまた電話をかけてきますって意味だってことに、その時の俺はまだ気づけてなかった。気づいたのは、次の日に俺の携帯が着信音を鳴らした瞬間だった。
 まあ、気づけてたところでどうしようもなかったんだけどな。



「にしてもお前、物覚えいいよなあ。俺の言ったこと全部覚えてるんじゃねえか?」
『わたくしには、神様の下されたお告げを細大漏らさず村の民に伝える義務があります。それに……』
「それに?」
『あ、いえっ、これは失礼にあたりますので……申し訳ありません神様っ!』
「なんだよー。謝らなくていいから言えよー」
 それでもミギワは言い渋ったけど、俺が引かないと知ると、観念したみたいにこう言った。
『その……ミズキ様のお話はとても面白くて聞きやすいので、自然と頭に入ってくるのです』
 確かに俺は、農業の話の合間にしょうもないギャグをかましたりした。だけどこれは別にミギワのためにやったワケじゃなくて、ミギワが俺の話に飽きたら俺を訴えるかもしれないから、少しでもそうならないようにと思ってしたことだった。とは言え、――「面白くて聞きやすい」。
 そんな風に言われたのは初めてだったもんで、俺は柄にもなく舞い上がっちまった。もちろん、それを表に出したりはしなかったけどな。
 とりあえずその場はミギワを適当に茶化して、話を逸らした。恐縮するミギワの声は、そう言われてみれば最初よりも明るくなっているような気もした。
 そして、この頃から確実に、俺がミギワと話をする理由は変わり始めていったんだ。



 最初の頃、とにかく俺が気にしてたのは、ミギワが聞きたい話をできているかってことだった。
 なんせお題が「食糧不足」だ。電話の向こうの人間が本当に食糧不足で悩んでいるとは思えないし、仮にそうだとしても農業の話で解決できるとは思えない。となれば農業のウンチクなんざ、向こうも聞きたくはないってことだろ? だからこそ俺はうまくないギャグを無理に挟んで、せめて相手が退屈しないようにしたワケだが……。
 意外なことにミギワは、農業に興味があるみたいだった。これは多分、設定とか演技とかじゃない。質問の仕方でわかったんだよ。特に二日目以降の「村の民からの質問」とやらには、実際に農業をしてる人間じゃないと絶対に聞いてこないような内容も含まれてたし。
 俺はそんな質問に、全力で答えていった。相手が何を知りたいのかを全力で汲み取って、それに応えられるように全力で考える。学校の友達とする馬鹿話とは違って、少し――いや、かなり疲れる会話だった。
 あと、疲れる要因がもう一つあった。
 農業は、結果がすぐに見えない。農薬でも持って行ってぶっかけたなら話は別だが、口伝えで劇的変化なんて、そうそう期待できないんだ。
 ミギワは精一杯の言葉で感謝の意を示してくれてる。それだけで俺が満足できればいいんだが、やっぱり結果が知りたい。
 正直、物足りなかった。なんかもっとすぐに結果が見える題材はないのかって、考え始めた。



 いつの間にか、俺は四六時中ミギワのことを考えるようになってた。つってももちろん、好きとかそういうんじゃねえぞ? ミギワに何を教えるか、そのことをひたすら考えてたんだ。
 その時も、俺はミギワに教えられることを探して教科書を捲ってた。授業の合間の休み時間だったな、確か。
「なにやってんだ? 水樹」
 いつもつるんでる智仁が、大して興味なさそうに聞いてきたんだ。俺が見ているのが教科書だと気づくと、ムカつく仕草で大袈裟に驚いて見せやがる。
「ヤベっ、俺カサ持ってきてねえ」
「心配しなくても、俺が勉強したぐらいで雨は降らねえよ」
 軽いやり取りを交わしながらも、俺は教科書の文字を目で追い続けた。俺があまり乗り気でないと知ると、智仁はつまらなさそうに俺から離れていった。
 その時俺はふと、題材探しを智仁にも手伝ってもらおうかと考えた……が、すぐにその案を却下した。そりゃそうだ。大昔の巫女さんに現代農業を教えるために勉強してるなんて言えるワケがない。冗談めかして言えば言えないでもないけど、それも面倒くさい。
 また教科書に目を戻そうとしたところで、俺はもう一つ思いついた。今度は没じゃない、我ながら名案だった。
 シミズに相談すればいい。
 シミズってのは俺の同級生で、この学校じゃちょっとした有名人だ。なぜ有名なのかっていうと、そういうことに詳しいからだ。そういうことってのは、あー……、あれだ。超能力とか霊とか宇宙人とか。とにかくそういう普通じゃないことは、シミズに相談するのがこの学校の通例みたいなもんなんだ。
 あいつなら俺の話にも付き合ってくれるだろうし、口が堅いから噂が広まる心配もない。そう思った俺は、周りに誰もいないときを見計らってシミズを呼び出した。
 シミズはいつだってヘラヘラ笑ってて、俺はいつだってそれが気味悪いって思ってた。呼び出した時も、シミズはヘラヘラと笑っていて、話してる間、俺は嫌悪感を表に出さないことに必死だった。
「結局のところ、水樹くんはわたしに何をして欲しいのかな?」
 喋りかた。下の名前で呼ばれたこと。有り得ない話をすんなり信じたこと。あの時の俺にとって、シミズの何もかもが気持ち悪かった。でもそれはもう、我慢するしかなかった。
 俺は、自分が感じている物足りなさについて話した。その時に俺が話した内容を要約すると、「結果がすぐに見える知識をミギワに伝えたい」ってことになる。はっきり言って、自己中極まりない悩みだ。もし話し相手がシミズじゃなかったら俺は恥ずかしくて話せなかったと思う。でもシミズには話せた。別に嫌われてもいい人間だったからな。
 俺の話を聞き終えたシミズは、しばらく考える素振りをしたあと、こう言った。
「どうしてそれをわたしに相談するの?」
 そこで俺は、シミズがオカルト関係に寛容なことや、頭がいいことなんかを多少持ち上げ気味に理由として挙げたんだが、シミズが言っているのはそういうことじゃなかったんだ。つまり……
「そのミギワって子に、直接聞いてみればいいんだよ」
 ってことだった。
 それで俺は、完全に言い返せなくなった。もしどうしても言い返そうとしたら、俺がシミズに感じている嫌悪感まで話さなくちゃいけない。嫌われてもいいとは思っているけど、さすがにそこまで図太くはなれない。
 俺が言いよどんでいると、シミズは俺に気を遣うようにこう言った。
「水樹くんのその話だけだと、ちょっとアイデアも出しにくいかな。だってミギワちゃんがどんな環境にいるのか、さっぱりぜんぜんわからないんだもん。もし直接聞けないなら、それとなく聞いてみたらどうかな?」
 俺はこの言葉に、納得するしかなかった。
「にしても、巫女でミギワか……。ちょっと調べてみよっかな。ねえ、その村の名前はどんなの?」
 そのあと俺は、シミズの質問攻めに付き合わされるハメになった。ろくな答えも聞けなかったのに話にだけ付き合わされて、本当、踏んだり蹴ったりだったよ。



 結果から言うと、俺がミギワに「それとなく聞いてみる」必要はなかった。その夜ミギワのほうから、『農業以外のことを教えてほしい』って切り出してきたからだ。
『戦争での勝ち方を、教えてほしいんです』
 何かあったのか、尋ねた俺に、ミギワは訥々と語った。
 昨日、ミギワの村が他の村に襲われたらしい。食糧を強奪されて、死人も出た。しかもそれは昨日だけじゃなくて、今年に入ってから村は何度も襲われてるってことだった。その度に略奪されて、人が死ぬんだとか。
『お父さんが、消えいりそうな声でわたしに頼むんです。巫女の力でなんとかならないかって。あんなお父さん、初めて見ました。わたし……わたし……』
 これはただの設定で、演技だ。わかってても、俺は心が痛んだ。
 歴史は得意じゃなかったが、その日のうちに覚えてる範囲のことはすべて話した。過去にあった戦争の戦略とか、その勝敗とか。次の日の昼間は戦争について調べられるだけ調べて、それを夜に話した。
 ミギワはお礼を言わなくなった。農業の話をしてたときは一つ教えるごとに「ありがとうございます」って律儀に言ってたのに。でもそれがなぜなのかは、聞かなくてもわかった。
 戦争について教えるってことは、人を殺す方法を教えるってことだ。人として間違ったことを教えてるのに、ミギワがお礼なんて、言うはずがない――。
 もう一度農業の話をしたいって、その時俺は切実に思った。前の日まで、あんなに嫌がってたのにな。



『神様、今日もまた、村が襲われました』
『わたしの村の人口ほどもありそうな大軍が、手に刀を持って押し寄せてきました』
『ですが神様が教えてくださった戦術のおかげで、誰も殺されずに済みました』
『みんな笑顔です。戦争の直後でこのように笑って過ごしているなんて、まるで夢のようです』
『でも…………』
『神様。わたしが、おかしいんでしょうか?』
『みんな、わたしに感謝してくれるんです。人を殺す方法を教えたわたしを、すごいって言うんです』
『人を傷つけることは、悪いことじゃないんですか?』
『…………』
『さっき、捕虜の男の人に会ってきました』
『その人は当たり前に、普通の人で……』
『わたしたちと何も変わらなくて……』
『…………』
『教えてください、神様』
『わたしのしたことは、正しいことですか?』
「…………」
 俺は、何も言えなかった。



 確かその時も、俺は戦争について調べていたと思う。って言うか、その頃はずっと戦争のことを調べてた。授業中でも、飯の時でもな。これが本当にミギワのためになってるのかどうかってことは、できるだけ考えないようにしてた。今思えば、ただの問題の先送りでしかなかったんだけどな。
 シミズが、俺に話しかけてきた。
「前に言ってたミギワちゃんのこと、調べてみたんだけど」
 他の話なら無視したかもしれないけど、ミギワのこととなれば、話は別だった。
「何かわかったのか?」
「うん、わかったよ。色々と」
 シミズが俺の向かいの席についた。その浮かない顔を見て、俺はもう嫌な予感がしてた。それでその予感は、正しかった。
 確かあの時、シミズはまずはこう言ったんだ。
「ミギワちゃんが生きてた時代は、水樹くんが思ってるほど昔じゃないよ」
 その言葉はつまり、ミギワって名前の巫女が実在したっていう意味でもあった。
 シミズが、何かのコピーを机の上に置いた。そこに書かれた文字は如何にも昔の文字で、俺にはさっぱり読めなかったんだけど、すぐにシミズが読みあげてくれたから、俺が自力で読む必要はなかった。
 ミギワが生まれた年は、確かに俺の予想よりも後の時代だった。まあ今思えば、文献が残っている時点でそれは予想できたことなんだけど……
 でもそんなことは、もう一つの事実に比べればどうでもいいことだったんだ。
「ミギワが、もうすぐ死ぬ……?」
 出した声は、掠れていた。
 シミズが、機械のように頷いた。
「そんなわけ……」
 声が震えた。
「そんなわけねえだろ。ミギワなんて巫女、いないんだよ。妄想女が勝手に作り上げただけで……。それが偶然実在して、計算したらもうすぐ死ぬって、なんだよそりゃ? 関係ねえだろ? ミギワが死ぬわけじゃねえし、もしかしたら……、そう、もしかしたら、ミギワもこれと同じ文献を見て、それでミギワだって、13歳って名乗ったんだって、そう考えたほうが自然だろ?」
 シミズは否定しなかった。ただ悲しそうな顔で、「そうだね」と呟いただけだった。否定したのは、俺自身だった。

――お父さんが、消えそうな声でわたしに頼むんです。あんなお父さん、初めて見ました。わたし……わたし……
――その人は当たり前に普通の人で、わたしたちと何も変わらなくて……
――わたしのしたことは、正しいことですか?

 あれが演技とは思えなかった。あれが作り話だなんて、それこそ有り得ないと思った。俺はあの時、とっくにミギワの話を信じてたんだ。
 でも、つまり、それを信じるってことは……
「認めねえ……」
 シミズは何も言わなかった。ただ俺の言葉を、黙って聞いていた。
「ミギワが死ぬなんて、そんなの認めねえ」



 一度完勝したのが良かったのか、しばらくミギワの村が襲われることはなかった。俺の戦争話が尽きたこともあって、いつの間にか話題は前と同じ、農業の話になっていた。
 その合間には、雑談をしたりもした。ふと、ミギワの言葉を噛み締めるように聞いてる自分に気づいて、いやミギワは死なないんだと自分に言い聞かせたことが何度もあった。
『この前、村の子供たちと一緒に遊んだんです。小さい子供が走り回ってる姿が、とても可愛かったんですよ』
「子供と一緒にって、ミギワも子供だろ?」
『ああっ、酷いです神様っ。わたしもう13歳ですよ? 子供じゃないです』
 高校生の俺でも、自分が大人なのか子供なのかわからないのに。そのあたりの感覚は、今とは随分違うみたいだった。
「…………」
 13歳。
 あの文献が正しくて、そしてミギワがあのミギワなら、ミギワは14歳を迎える前に死ぬことになる。
 あの後必死で文献を捲ってみたけど、死因はわからなかった。病死なのか、事故死なのかもわからなかった。ただ、ミギワの元気そうな話し方から、少なくとも今は病気じゃないんだってことは予想できた。
 俺は悩んでた。ミギワの死を、ミギワにどう伝えるかってことを。下手に事実を伝えて、ミギワの気が触れて、それが死に繋がったら――そう考えると、迂闊なことは言えなかった。
 そんなことを悩んでたせいだと思うんだけど、その時、ほんの一瞬、ミギワとの会話に沈黙が生まれた。それでその沈黙を打ち消すように、ミギワが言ったんだ。
『神様、一つお聞きしてもいいですか?』
「なんだ?」
『ずっと前から気になっていたことなんです。物心ついたころから、ずっと』
 その声色から、それが真剣な話なんだってことは理解した。だけど甘かった。それはただの真剣な話じゃ、なかったんだ。

『生まれ変わりは、ありますか?』

 その一言で、俺には何もかもがわかった気がした。
 ミギワがそう聞いた理由も。
 そこに込められた想いも。
 全部、わかった。
「ある」
 生まれ変わりがどうとか、そこまで真剣に考えたことはそれまで一度もなかった。当然あるかないかもわからなかったし、実は今でもよくわかってない。でも、そのとき俺はそう答えた。ないだなんて、俺には言えなかった。
『……そうですか』
 ミギワの声は、心底安心した声で、その声を聞いて、俺は自分の答えが正しかったことを確信した。
 だけど……
『だったら、わたし……』

『来世で、わたしが殺した人たちに謝ることができるかもしれませんね』

「…………!」
 わかった気がした――気がしただけだった。俺は何もわかってなかったんだ。
 ミギワが生まれ変わりを求めたのは、自分が生まれ変わりたいからじゃなかった。自分が死ぬことを知らなかった? 違う。そうじゃない。
 自分の死を認めた上で、自分の生まれ変わりよりも人の生まれ変わりを願ってたんだ。俺はミギワを何も知らなかった。
 俺はミギワを何も知らなかった。
『神の使いなんて言って、わたしは何もわかっていませんでした。不思議な力で未来が見えても、そこでわたしが何を感じて、何を思っているのか、まったく理解していませんでした』
『こんなに辛いだなんて……。辛くて、憎いです。わたしはお父さんのために、みんなのためにがんばったのに、どうしてみんなはわかってくれないんですか? みんなは人殺しです。そしてわたしは、その先導者です』
『死の運命を呪ったときもありました。でも今は嬉しいです。死ねることが、嬉しい。これで少しでも償えるなら……いいえ、もう、生きているのが辛いんです』
 生きるのが、辛い。
 そんな言葉、聞きたくなかった。だって俺は、ミギワを生かすために……
「んなこと……言うな……」
『神様……?』
「違う!」
 この時ほど、「神様」っていう呼ばれ方が気に触ったことはなかった。まるで俺が、ミギワを殺す張本人みたいで。
 このあと俺がミギワに何て言ったのか、もう覚えてない。ただ、腹が立って、粗暴な言葉を電話口にぶつけたのは確かだ。ミギワに死んでほしくない。死なせたくない。その思いを思いのままに、支離滅裂に言い放った。
『どうして、そんなことを言うんですか?』
 途切れ途切れに聞こえてきた声は、涙混じりだった。
『どうして、わかってくださらないんですか? 喜んで死のうとしてるのに。死んでもいいことあるって、生きててもいいことはないって、そう思いたいのに……』

 ミギワが死ぬ理由。それは、不思議な力が原因らしかった。
 ミギワの一族には、稀に不思議な力を持つ人間が生まれる。その力の代表的なものが未来予知で、それでミギワの一族は崇められ、その内に一つの村の支配者に成ったそうだ。
 でも、その代償は小さくなかった。未来予知ができる人間が最初に見る未来――それは必ず、数年以内に来る、自分の死だった。
『たくさんの人がその運命に抗おうとしました。もちろん、わたしも。どうすれば未来を変えられるのか、必死になって考えました』
 だけど未来を変えることはできなかった。変えられない未来を知っても、ただ辛さが増すだけだ。
『これは、罰なんでしょうか。たくさんの人を殺したから、わたしは罰を受けるんでしょうか』
「罰なんてそんな……」
『だとしたらわたしは……』
 そのあとに言葉は続かなかった。



「この世界で一番不思議なことは、なんだと思う?」
「それはね、私たちがこうして生きていることだよ」
「例え話をしよっか。ある無人島に、腕時計が落ちているの」
「遭難した人がそれを拾って、こう考えた。『この島には、少なくとも一度は人がいたことがある』」
「当然のことだよね。腕時計なんて明らかに人が作ったものだもの。人か、それ以上の知能を持った生物が来たことない島に、落ちてるはずがない。もしそれ以外に考えられるとしたら――」
「腕時計の元になった物質が、風化の中で偶然腕時計の部品の形になって、それが何かの拍子に偶然組み上がった、とか」
「なんて、そんな偶然起こるはずないよね」
「そう。そんな偶然起こるはずない。それに比べたら、無人島に人がいたことがあるって思ったほうが合理的だよね」
「――じゃあ、人はどうかな?」
「この宇宙ができる前は、世界はいわば無人島だった。人どころか、生物すらいなかった」
「そこに偶然ビッグバンが起こって、そうしてできた宇宙が偶然人間の住みやすいようにできていて、偶然地球ができて、偶然人間ができた」
「そんな偶然が起こる可能性ってね、無人島に高性能のパソコンが偶然出来上がる可能性よりももっともっと低いんだよ?」
「つまり何が言いたいのかって言うとね……」
「人間は、偶然できたんじゃないんだよ。そしてこの世界は、人類が誕生する前から無人島じゃなかった」
「人――じゃないにしても、知能を持った何かがいて、その何かが、この世界を始めた」

「それが神だって言いたいのか?」
 俺の問いかけに、シミズは頷いた。俺はそんなシミズを睨みつけるように見据えた。
「だったら、その神とやらはクソ野郎だよ。ミギワに勝手に妙な力をやって、勝手に殺すことに決めて。ミギワはそんなこと望んでないし、ミギワが死ぬ理由もない」
 神なんて、そんなの信じたこともなかった。でもその時だけは、信じてやってもいいかもしれないと思った。
 ミギワを殺す、憎い敵として。
「その神とやらはご満悦だろうな。自分が作った人間どもが、悲しんだり、嘆いたり。それを上から眺めんのは、さぞかし気持ちいいんだろうよ」
 空に唾を吐きかけたい気分だった。もちろんそうしたところで俺自身に唾がかかるだけで、だからこそ、憎いと思った。
「私は、そうは思わないよ」
 シミズが、静かにそう言った。その表情は、少しだけ悲しそうに見えた。
「水樹くん。あなたは、喉が渇いて渇いて仕方なくて、やっと水が飲めたときに、その水をおいしいって思ったことはない?」
「……何が言いたいんだよ」
 俺の唸るような声にも動じず、シミズは続けた。
「夜眠るときに布団に入って、安らぎを感じたことはない? 周りの人の何気ない優しさに触れて、心がぽかぽかしてきたことはない?」
「…………」
「そしてその優しさを誰かに返してあげたとき――心の底から、幸せな気持ちがこみ上げてきたことは、ない?」
 あまり、あるとは言えなかった。俺はそんな当たり前のことで幸せを感じられるほど、人間ができてない。だけど……
「そんな幸せをくれる神様が、いじわるするために人を創ったなんて、そんなことはないよ、きっと」
 ミギワと出会えたこと。
 ミギワと話せたこと。
 俺が今ここにいて、過去にミギワがいたこと。
 それは確かに幸せなことだった。例えミギワが死んでしまうとしても、ミギワと会えたこの世界がないほうがいいとは思えない。
「じゃあ、なんでミギワは死なないといけないんだよ……」
「それはわたしにもわからないよ」
 ここに来てそれかと、思った。
 これだけ長々と語った癖に、俺が一番知りたかったことは、わからないなんて、じゃあ何が言いたかったのかと、そう言いかけて……
「でも神様には、私たちにわからないことがわかるんだと思う」
 シミズの話は、続いた。
「この世界を幸せな世界にするためには、ミギワちゃんは死ぬしかなかったんじゃないかな……」
「ふざけんなっ!!」
 本当に、ふざけているとしか思えなかった。
 そんな理由でミギワが死ぬ? そんなよくわからない都合で? 納得できるわけがなかった。それならまだ、まるっきり「わからない」ままのほうが良かった。
「じゃあ何か? ミギワは大勢の人間が助かるために、死なないといけない運命だったって言うのかよ?」
「そうだよ」
 シミズは認めた。あっさりと。はっきりと。
 胸の中がマグマのように煮えたくり、せり上がってきた。その細い首を握り潰してやりたいと、本気で思った。
「どんなに綺麗事を言っても、結局のところはそうなんだよ。一人の命と百人の命なら、百人を助けるほうが正しいに決まってるの。今はミギワちゃんしか見えないからそうは思えないけど……。ミギワちゃんを死なせてしまったからって、神様を恨むのは間違ってるよ」
「なんでだよ……? ミギワ一人すら助けられねえヤツだぞ? 恨まれて当然だろうがよ!」
「助けられないことが、悪いことなの?」
「――――!」
 その言葉に込められた裏の意味が、俺にははっきりと理解できた。
――あなたも、ミギワちゃんのことを助けられないのに。
「恨む人を間違えたらだめだよ。人が死ぬ。その人は神様に見捨てられた。でも死ぬ原因は、神様じゃないでしょう?」
 神様は見捨てた訳じゃないと思うけど、と、シミズは早口に付け加えた。
「じゃあ、誰が悪いって言うんだ?」
「それは…………私たちだよ」
 意味がわからなかった。俺たちはミギワが死んだ何年も後を生きているのに。
「私とあなた、っていう意味じゃなくて、私たち人間って意味だよ」
 シミズがそう補足した。
「さっきも言ったように、神様はきっとこの世界を幸せな世界にしたいって思ってる。確証なんてないけど、私はそれを肌で感じてるの。でもこの世界は、幸せじゃないこともたくさん起こる。それは神様の力が足りないからじゃなくて、きっと私たちがバカだからなんだ……。喧嘩したり、恨んだり、蔑んだりして、人を傷つけてる。そうした分だけ誰かが不幸になっていくんだよ」
「ミギワは、誰かに傷つけられたんじゃねえだろ……」
「そうだね。でもミギワちゃんの犠牲のおかげで傷つかなくて済む人が、きっと世界にたくさんいるんだよ。それが神様にはわかってるんだと思う」
「…………」
「神様にそんなことをさせたのは、人を傷つけてる私たちだよ。私たちが人を傷つけさえしなければ、きっとミギワちゃんの犠牲は、なくても良かったんだよ……」



 生まれ変わりの話をして以降、ミギワが泣いたことはなかった。俺と話してないときに泣いていたのかもしれないけど、それは俺には確かめられないことだった。
 もし俺が過去に戻ることができたら――そう思ったことが何度もあった。それでミギワが助かるわけじゃないにしても、俺はせめてミギワの近くにいてやりたかったんだ。
「心残りは、ないのか?」
 こんな質問をするのに、俺は丸一日考えこまないといけなかった。これを聞くことで俺はミギワを傷つけてしまわないか。何もしてやれない俺がそんなことを聞いてどうするのか。
『ありません』
 俺が必死に絞り出した言葉への返答は、あっさりとしたものだった。
『ただ、あえて言うなら、私はあなたともっと話がしたかったです』
 まあそれも死にたくないってほどではないんですけど、と、ミギワは付け加えて、
『だから――ミズキ様。今夜は眠らないで、たくさんお話しましょう』

 本当に、たくさん話した。これまで話してこなかった身の上話や、下らない悩みや、趣味の話を。
 今まで知らなかったミギワを知ることができた(意外と男勝りな性格らしい。機織りや料理よりも、畑を耕したり家を作ってるほうが好きだとか)。聞いているうちに、ミギワをもっと身近に感じて、もっと好きになれた。好きになるほど別れが辛くなるとか、そんなことはどうでも良かった。とにかくその時は、ミギワの存在を、できるだけ深く、自分の心に刻みつけておきたかった。
『私が話してるばかりじゃつまらないです。ミズキ様の話も、聞かせてください』
 ミギワが俺のことを『神様』ではなく『ミズキ様』と呼んでいることには、当然気づいていた。
「俺の話っつっても、たいしたことねえぞ? 学校に寝坊したとか、お袋と喧嘩したこととか」
 ミギワはいつから気づいていたんだろう。俺が神様じゃないってことに。だがミギワが今夜に限って俺を『ミズキ様』と呼ぶのは、それだけが理由じゃないような気もする。
『お母様と喧嘩されたんですか……? 早く仲直りしたほうがいいですよ……』
 こんな時でも俺のことを気遣ってくれるミギワが、とても愛おしかった。
「大丈夫だ。さっき、ちゃんと謝ってきたから」
 素直に謝れたのは、ミギワのおかげだった。必死に生きてるミギワのことを思うと、母親を邪険にしている自分が許せなくなった。
『よかった……』
 俺はミギワに、農業やら戦略やらを教えたけど、ミギワは俺に、人生の大切さや、人を労る心の綺麗さを教えてくれた。
 ミギワにこの恩を返したい。でも返せない。その事実が、何とも言えず切なかった。

 夜の一時を過ぎた頃から、ミギワの声が眠そうになってきた。返事をするのが遅い。こんな時間まで話し込んだのは初めてだったから、それも無理はないのかもしれない。
「もう、寝るか」
 時計の針が一時三十分を指してるのを見ながら、俺はそう言った。
『そうですね……』
 眠気には抗えないと思ったのだろう。ミギワは素直だった。
 正直俺は、もっと話していたい。いつミギワがいなくなるともわからない。もしかしたらこのままミギワがいなくなってしまうかもと思うと、別れを告げるのが辛い。
「…………」
『…………』
 ミギワも「おやすみ」とは言ってこなかった。
 もしかしてもう寝てるのかって一瞬思いかけたけど、なんとなくそうじゃないってことがわかった。きっとミギワも、俺と同じなんだって。
『……ごめんなさい』
 沈黙をやぶったのは、ミギワからのそんな言葉だった。
 携帯電話のスピーカーから、小さい吐息の音が聞こえてくる。その間隔がいつもより少しだけ早いことに、俺は気づいた。
『わたし、あなたを遠い人だと思ってました。遠くて、関係ない人だから、あなたのこと、何も考えてなかった……』
「…………」
『わたしが……死んだあとの話です』
 胃袋が捩れるような思いがした。
『あなたはすごい人だから、あなたは傷つかないって、心で勝手に決めつけてました。でもそうじゃないって、今やっとわかって……今さら、今さら気づいて、でも、その……」
「…………」
『ごめんなさい……』
 できれば、ずっと気づいて欲しくなかった。
 これから死ぬ人間が、ましてや13歳の子供が、そんなことまで背負い込む必要ないのに。俺のせいだ。もうすぐお別れだと思って、弱いところを見せ過ぎた。油断、した。
「ミギワ……」
『はい』
「心残り、本当にないのか?」
 さっきしたのと同じ問いかけ。でも今度は、すぐには答えは返ってこなかった。
 そして、その答えも……
『忘れたくない』
 さっきとは、違う答えだった。
『わたしがしてしまったこと、忘れたくないです。たくさんの人を死なせてしまったこと。その罪を、忘れたくないです』
 その心情は、俺には到底理解できなかった。償えない罪を忘れられるのは、死んで唯一喜べることのはずなのに。
 そういえばミギワは、前に死にたいと話したときも、罪から解放されるために死にたいと言ったんじゃなかった。罪を少しでも償うために、死にたいって言ったんだ。
 理解できない。死ぬ間際の心残りがそれだなんて。怖いとすら思う。
 でも、ミギワがそう言うなら、今の俺にできるのは……
「わかった」

「お前の願い、俺が叶えてやる」

 そう言ってやることだけだ。
『ミズキ様が……?』
「ああ、お前は死んでも、また人間に生まれ変わる。そしてお前は自分の罪を思い出す。だから償いもできるし、償い切るまで、何度だって生まれ変わる。俺が保証する。なんせ俺は――」
 ミギワと初めて話したときのことを思い出していた。

――もしもし? 俺だけど。
――あなたは、神様ですか!?

「俺は、神だからな」
 こんな嘘、気休めにもならないのかもしれない。だけど今、俺に言ってやれる言葉は、それしかなかった。
『……ありがとうございます』
 嘘だとわかっているだろうに、ミギワはそう言ってくれた。そんな風に気を遣わせてることが、嫌だった。



 次の日、目が覚めると辺りは真っ暗だった。どうもまだ太陽が上がっていないらしい。夕べはかなり夜更かししたのに、こんな早い時間に目が覚めるなんて。もう一度寝てしまおうかとも思ったけど、不思議と目が冴えていた。
 違った。不思議じゃなかった。目が覚めたのも当たり前のことだった。いつもは自分しかいない寝室に、自分以外の人がいたから。
 灯りはないから、姿は見えない。それどころか部屋の中さえも、はっきりとは見えない。でも人がいるのはわかった。その人は、〈わたし〉の寝床にゆっくりと近づいてきて……
 そのあと何が起こるのか、わたしはずっと前から知っていた。覚悟して受け止めようと思っていたけど、身体は反射的に避けていた。でもそんなわたしの抵抗を物ともせずに、その人影はわたしの身体に突き立てた。
 鋭い刃物を。
 痛いとか、そういう感覚を遥かに超える痛みが、わたしの全身を貫いた。そう、全身。刺されたのはお腹なのに、その痛みはわたしの全身を苛んで、指先までも痺れが広がった。
 わたしは咄嗟に、自分の腕を噛んだ。
 腕の痛みでお腹の痛みを紛らわすとか、そんな目的もあったかもしれない。でもそれ以上に、わたしは自分の叫び声を抑え込む必要があった。服を噛んでも良かったけど、一番噛みやすかったのが、自分の腕だった。
 口の中に広がる血の味は、喉の奥から来ているのか、腕から流れ出したものなのか、わからなかった。自分の心臓の動きがはっきりと感じられた。脈打つ度に痛みが走って、身体が震えた。寒い。流れている血は、わたしの命そのものだった。
 朦朧とする意識の中で、人が部屋を出ていく音を聞いた。その音が聞こえなくなる頃、ついにわたしは、痛みを痛みとして感じなくなった。
 わたしは、刺した人のことを考えた。顔さえもろくに見えなかったけれど、あれが誰なのかはわかる気がした。捕虜の人だ。名前は、最後まで教えてくれなかった。
 あの人は、これからどうなるんだろう。幸せになってほしいけど、そんなことが有り得ないということはわたしでもわかった。――予知能力じゃない。予知は、自分のいない未来は見ることはできないから――あの人はきっと、村のみんなに殺されてしまうか、なんとか村を抜け出したとしても、自分の村に辿り着く前に死んでしまうだろう……。
 わたしは、死んでも人を不幸にする。自分の死は避けられないにしても、この結末は避けられたんじゃないかと考えかけて――その考えを否定すると共に、もう考えても仕方ないと思った。
 もう、考えても仕方ない。わたしはもう、死ぬ。
 わたしに今できること。それは――生まれ変わった先で人を幸せにできるように、祈るだけだった。
 わたしの、神様に。



「……っ!」
 目が覚めると、そこは見慣れた自分の部屋だった。
 無意識に自分の腹を撫でる。さっき刺されたそこに傷はなく、綺麗なままだった。
 いや、確認するまでもなくわかっていた。あれはミギワの体験だ。俺はさっきまで、ミギワになっていたんだ。あれがただの夢じゃないってことは、感覚で理解できた。
 つまり、ミギワはもう……
「……ミギワ……」
 ミギワが、死んだ。
 致命傷だった。体験したからよくわかる。もうミギワは助からない。仮にすぐ誰かに見つけられて手当てをされても、もう助からない。それぐらいの傷だった。
「嘘だ……ミギワ……」
 嘘であって欲しかった。あれがただの夢だったらどんなにいいか。でもそうじゃない。あれは現実だ。
「ミギワ……! ミギワ……!」
 繰り返し名前を呼んだ。無意味に携帯の着信履歴を押した。繋がらないことはわかっているのに、それでも、俺は。
 俺は、ミギワと話がしたかった。
 目が霞んで、手が震えた。リコールさえできない携帯電話は、やがて手から溢れ落ちた。大きな音が部屋に響く。落ちた携帯電話を拾うことが、俺にはもうできなかった。
「ミギ、ワ……」
 なんでだ。なんでミギワが死なないといけない。ミギワが何をした? 人を殺したから?
「だったら俺も同罪だろ……。俺も殺せよ。なあ? 神様……」
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。
 まだミギワと話したい。ミギワの声が聞きたい。
「ミギワ……。ミギワ……。ミギワ……」
 その時――
 声が、聞こえた。



 廊下の向こうから、ダンボール箱を二箱抱えたシミズが歩いてくる。
 歩き方がふらふらと危なっかしい。見ていられなくて、俺は二段目のダンボール箱をひょいっと奪い取った。
「あ、水樹くんっ」
 気づいてなかったのか。このダンボール箱そんなに重くないのに、どんだけ必死だったんだよコイツ。
「なにやってんだよ、お前」
「あ、うん。先生に運んでほしいって頼まれて」
「なんで引き受けたんだよ。断っても良かっただろうに」
「そうだね……。確かに断っても良かったんだけど、引き受けても良かったから、引き受けたの」
 シミズのこういう行動――いわゆる善行は、よくよく考えから前々から目にはしてたんだ。だけど俺はそんなこと、気にも留めてなかった。
 気づいたのは、シミズから神様の話を聞いてからだった。シミズはシミズなりに、この世界を幸せな世界にしようとしているらしい。
「あれ? 運んでくれるの?」
「一度持ったんだ。手伝わないわけには行かねえだろ」
「あ、うん。えっと、その……ごめん」
「あぁ? なんで謝るんだよ?」
 お礼を言うならまだわかるけど。
「や、あのね? 怒らないで聞いてね? 水樹くんなら、一度持って安心させたところにもう一度ダンボール箱を乗せるってこともやりかねないなあって思ったから……」
「なるほど。それは名案だな。早速やってみよう」
「ああ! ごごごごめんなさいごめんなさい! お願いですから手伝ってください!」
 丁重に謝るシミズ。丁重にって言っても、手にはダンボール箱を持ってるから頭を下げることしかできてないけど。
「ったく」
 悪態をつきながら、俺は先に歩きだした。最終的にどこに運び込むのかは知らないけど、とりあえずこっちの方向に歩けばいいだろ。
「ほ、本当にありがとうね、水樹くん」
 俺の後ろに追いすがるようにしながら、シミズが話しかけてきた。
「……別にいいって。俺もお前に話したいことがあったから、そのついでだし」
「そうなんだ……。わたしはてっきり――」

「前世の自分がやり残したことをしようとしてるのかなって思ったけど」

「…………」
「あ、この荷物、放送室までだから」
「おう……」
 コイツは、一体いつ気づいたんだろう。
 まるで当たり前のように言ったけど、もちろんそのことを話した覚えはないし、そもそも俺だって気づいたのはつい最近のことなんだから。
「それじゃあ、あれかな? 水樹くんはわたしの話に感化されて、わたしと同じように幸せな世界を作ろうって思ってくれたのかな?」
「いや、正直お前のあの話はよくわからなかった」
「えー、ひどーいっ」
「気づいてないようだから言っとくけど、お前もさっきから相当酷いこと言ってんぞ?」
 なんで俺がダンボール箱を運ぶだけで、そんな大層な理由が必要なんだ。
「ダンボール箱だけじゃないよ」
 シミズは、はにかむように笑いながら、そう言った。
「最近、水樹くん変わったでしょ? すれ違うときに道を譲ったり、真面目に掃除がんばったり。あんまり派手なことじゃないけど、今までの水樹くんはしてなかったことだよ」
「……まあな」
 確かに俺は今まで、馬鹿なことばかりしてた。暇だからって理由でオレオレ詐欺なんかしたのが、その極めつけだ。まあ、そのおかげでミギワに会えたと言えなくもないけど。
「どうして、変わろうって思ったの?」
 放送室に荷物を置いたところで、シミズが聞いてきた。放送室から出ようとはしない。ここで話を済ませてしまうつもりらしい。
 だったらと、俺はコロ付きの椅子を一つミギワのほうに滑らせた。そのあと、自分も別の椅子に座る。
「その前に、俺から一つ聞いてもいいか?」
 律儀に「ありがと」と言ってから座ったシミズに対して、俺は問いかけた。
「いいよ。なに?」
「いつから、俺がミギワの生まれ変わりだって気づいてた?」
 ミギワは女で、俺は男。それだけの理由で、俺は長いことその真実に辿り着けてなかった。
 それがわかったのは、思い出したからだ。自分が死ぬ瞬間――つまり、ミギワが死ぬ瞬間を。いつもの電話じゃない。まるで夢を見るように、ミギワの視点で、俺は自分が殺される瞬間を見た。
 それを見て、俺はわかった。俺自身が、ミギワの生まれ変わりだってこと。そして……
 ミギワからの電話は、もう来ないということ。
「…………」
 胸が詰まって、張り裂けそうなほどに痛い。大声をあげて泣きたくなる。
 今ではすっかり聞きなれた非通知の着信音。毎晩聞いたあの音が勝手に鳴り出すことは、もうない。ミギワの声が、もう聞けない。
 本心は、しばらく部屋にこもって泣き暮らししたいぐらいだった。自分の心の弱さを、今回のことで嫌ってほど知った。
「わたしがそうかもって思ったのは――」
 俺の心中に気づいていないのか、それとも気づかないフリをしてるのか、シミズはいつもと変わらない口調で話し始めた。
「君から最初に、ミギワちゃんの話を聞いたときだよ。ミギワちゃんが未来の人と通信できる能力を持ってるにしても、それが水樹くんにだけ繋がるのはおかしいから。あと、ミギワちゃんが未来予知もできるって聞いたとき、はっきりわかったの。ミギワちゃんは、自分の未来の声を聞いてるんだなって」
 黙っててごめんね、と、シミズは悪びれずに言った。腹は立たなかった。言われたところで何かが変わったとは思えないからだ。
「ミギワは未来予知の能力で俺の声を聞いてた。それじゃあ、俺がミギワの声を聞いてたのは……」
「前世の記憶を思い出してたんだね」
「そんなことが有り得るのか?」
「ミギワちゃんの願いだったんでしょ? 『生まれ変わっても自分の罪を忘れたくない』。きっとそのお願いを、神様が叶えてくれたんだよ」
 わかるようなわからないような理屈だ。確かに、俺が前世の記憶を思い出したんだから、ミギワのその願いは叶ったということになる。だけど叶え方がなんだか変だし、そもそも俺は神様とかそんなの信じてないし……
「ねえ、それより早く教えて? どうして変わろうって思ったの?」
 椅子ごと俺のほうに近づきながら、シミズが訊ねてくる。俺は背もたれに身体を預けてシミズから少し距離を取りながら、言った。
「正直、今さらミギワが俺の前世だとか、ピンとこねえんだよ。感覚でわかって、理屈でも今さっきわかったけど、それでもどっかで、ミギワは俺とは別の人間だって思ってる。それでそれは、案外間違いじゃないんだ。いくら魂が同じだとしても、記憶がほとんどなくなってるんだ。それってもう、別人じゃねえか」
「そう、かな……」
 シミズには理解できない話かもしれない。神の存在を完全に信じきっていて、きっとこれまでにもいくつかの不思議な出来事に遭遇してきた、シミズには。だけど実際にミギワと話した俺にとっては、ミギワは俺とは別人なんだ。だから……
「だから俺は、前世の自分の罪を償うために何かしようとしてるんじゃない。ミギワっていう、一人の女の子の願いを、代わりに叶えてやりたいんだ」
 ミギワの願いは、自分が殺した相手に対して償いをすること。だけどもちろん、殺した人間がどんな姿に生まれ変わってるのかはわからない。それなら、償う方法はない。普通に考えれば。
 でも、普通じゃない方法なら、ある。世界中の人間をミギワが殺した人間の生まれ変わりだと思えばいい。出会う人間全員に片っ端から償いをする気持ちで接するんだ。
 生半可なことじゃない。でもやり切ってみせる。ミギワからの最後の願いだと思えば、それもできる。前世の償いとかいうワケのわからない理由よりも、そのほうがよっぽどいい。
「それが俺の、俺がついた嘘の、責任だ」
 気休めだけじゃ終わらせない。嘘のままで終わらせない。
 一生を賭けて、全力でミギワの願いを叶える。俺はそう決断した。

「いいなあ」
 シミズが、椅子をくるくるまわしながらそう言った。
「愛されてるなあミギワちゃん」
「愛、か……」
「ああうん、茶化したわけじゃないんだよ? ただ、いいなあって思って」
 まわる、まわる、まわる。
「わたしがミギワちゃんの生まれ変わりだったら良かったのになあ……」
 緩やかに回転が止まった。シミズは、俺のほうを向いていた。
 俺は何も言わない。ただシミズを見返すだけだった。
「……ごめん、不謹慎だったね」
 シミズは立ち上がり、スカートを軽く払ってから放送室の出口へと向かう。俺はそれを何も言わずに見送る。
「水樹くん、強いね」
 扉の前で、シミズが言った。背をこちらに向けたまま。
「水樹くん、考えなかった? ミギワちゃんが死んでも、もしかしたら今この時代に生まれ変わってるミギワちゃんに会えるかもって。もし会えたら、少しは悲しさが紛れるかもって」
「…………」
「でもそれが水樹くん自身だったってことは……水樹くんにとって、ミギワちゃんっていう存在は完全に消えてしまったってことになる。もう絶対に会えない。こんな最悪な結末も、幸せな世界のためには仕方ないことなのかな……」
「…………」
「それでも挫けないで前向きにがんばろうとしてる水樹くんは、本当にすごいと思う。本当に――」

――水樹くんは、強いね。

 扉が音を立てて閉まると、そこにはもうシミズはいなかった。放送室には、俺一人が残された。
 一人の時なら、泣いてもいいなんて、そんな決まりを作った覚えはないけど、知らずに涙がこぼれ落ちていた。

――水樹くんは、強いね。

「強い……」
 手で顔を覆っても、涙は止まりそうにない。それどころか、どんどんどんどん溢れ出してくる。
「強く、なりてえなあ……」
 思わず呟いた。呟いてから考えた。強くなるって、なんなんだろう。
 今感じてるこの胸の痛みを感じなくなることか。それとも痛みに慣れてしまうことか。どっちにしてもそれは、ミギワのことを忘れるのと同じじゃないのか。
「強くなくていい。強くなくていいから……」
 声を……
 聞きたい。



――神様。
――わたしの、神様。

 泣かないでください。
 もう、泣かないでください。
 わたしは、幸せだから……、悲しくなんてないから、心残りなんてないんですから……。だからもう、泣かないでください。
 あなたが、わたしのために泣いてくれて……とても嬉しくて……、こんなにも、わたしのことを想ってくれる人がいて……。だから、だからもう、泣かないでください……。
 わたしの大切な人が、わたしのことを大切に想ってくれる……そんな想いを胸いっぱいに感じながら終われる……。こんなに幸せな気持ちで終われるなんて……。
 わたしは、幸せです。神様。
 …………。
 ……神様。
 ……ううん、ミズキ様。
 わたしが幸せな理由、もう一つ、あるんです。
 ミズキ様。わたし、どうして自分が死なないといけないのか、わかったんです。
 それは神様が――ミズキ様じゃない神様が、最後にわたしにくれた贈り物……。
 わたし今、未来が、視えるんです。
 いままで見えてたのよりももっと先の……自分が死んで、生まれ変わった先の未来。ミズキ様として生まれて、死ぬまでの未来。
 ありがとうございます、ミズキ様。ミズキ様がわたしのためにしてくれる、数え切れないこと。ミズキ様がこれから助ける、たくさんの人たちの笑顔――
 それが見れて、わたしは今、すっごく幸せなんです。
 わたしは、たくさんの人を殺しました……。たくさんの人を不幸にして……悲しませて…………、もう、どんなにしても、償いきれない罪を、犯しました……。
 許してほしいなんて思っていません。許されるとも思っていません。たとえ、ミズキ様がたくさんの人を助けても。でも……
 ……わたしが生きた意味、ずっと考えていました。
 わたしはなんのために生まれたのか。神様はなんのために、わたしという人間を作られたのか。なんのために未来を見せ、ミズキ様と会わせたのか……。
 ミズキ様。こんなことを言ったら、優しいミズキ様は怒るのでしょうけど……。
 神様は、ミズキ様にたくさんの人を助けさせるきっかけとして、わたしを生み出されたのだと思います。
 ミズキ様はこれから、わたしが不幸にした人たちよりもたくさんの人を、幸せにします。わたしが殺した人たちよりもたくさんの人の命を、救うんです。
 だからわたしは今、幸せな気持ちで死んでいけるんです。
 ミズキ様。これからのミズキ様の人生には、辛いことがたくさんあります。それは全部、ミズキ様が投げ出そうと思えば、投げ出せることばかりです。
 でも……お願いです。どうか、投げ出さないでください。――わたしのせいなのに、こんなことお願いするのはどうかと思いますけど――でも、投げ出してほしくないんです。
 だってミズキ様は、幸せになれるから。
 辛いけど、幸せになれる未来だから。だからその未来を、捨ててほしくないんです。
 本当は、わたしもミズキ様の元に行って、お手伝いをしたいです……。でも、それはできないから……。だからせめて、ミズキ様のこと、わたしが見たってことだけでも伝えさせてください。
 ミズキ様が、人知れず苦心され、これから助ける命も……そして、助けられない命も……。
 周りの誰も気づかないようなことでも、わたしは見ました。わたしは知っています。ミズキ様の優しさを、わたしは知ってるんです。
 どうか、くじけないで……。ミズキ様のこと、わたし、いつでも見ていますから、だから……もう、泣かないでください。
 ミズキ様のされることは、間違っていません。無駄なことなんかじゃありません。
 自分の心を信じて……いつまでも、明るくて、面白くて、優しいミズキ様でいてください。
 そんな……そんなミズキ様が、わたしは……
 わたしは……
 あなたに出会えて……あなたの人生に触れられて……こんなにも、あなたに想ってもらえて――
 わたしは、幸せでした――。

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