2015年8月2日日曜日

お兄ちゃんと呼んでくれ

 軽やかな水音が聞こえる。
 夜でも賑やかに奏でられるこの音、私は嫌いじゃない。いっそ好きって言ってしまってもいいくらい。
 だけど今だけは、この音に止んでほしいと思う。この噴水の音も、遠くに聞こえる車の音も、全部、全部止んでほしい。他の、もっと大事な音を聞き逃さないために……。
 彼が私を見つめる。その目に私は吸い込まれてしまいそうで、もう彼以外の何もかもが目に入らなくなってしまう。
 彼の口が開く。やっと、あの言葉が聞ける。
「奏」
 名前を呼ばれただけで、身震いしてしまいそうな緊張感が走った。
「はい」
 心臓が、音が聞こえてきそうなくらい強く脈打っている。早く早くと急き立てる心は、いたずらに心臓の動きを早めるだけで、時間はちっとも早く進まない。
 こうして近くで顔を合わせていると、彼の逡巡が自分のことのようによくわかる。そんな彼が可愛くて、愛しくて。ずっとこうしていたいような気持ちになるけれど、でも早く次の言葉が聞きたい。自分の中の相反する心がせめぎ合って、もう、どうにかなってしまいそうだった。
「奏、俺……」
 来る。
 私は胸の上で、手をぐっと握った。
「俺のこと……」

「俺のこと、お兄ちゃんって呼んでくれないか?」

「………………………………………………………………………………………………………………………………………………ふぇ?」

 * * *

「はぁあ?」
 私もあの時はこんな顔してたんだろうなあ。
 向かいの席に座る琴羽の顔を見ながら、そんなことを思った。
「なに? それってどういう意味よ」
「なんかね、ずっとそう呼ばれたかったんだって」
「お兄ちゃんって?」
「お兄ちゃんって」
 呆れた様子の琴羽は、ため息と共に椅子に座り直して、ずずず、とジュースを飲んだ。
 私もジュースを飲もうとしたけど、見ると中身が空っぽだった。おかわりを注文しようかなあって思ったけど、ウェイトレスさんがすごく忙しそうに走り回ってたから、やめた。
「それで、あんたはなんて返事したの?」
 琴羽が私に聞く。
 私はコップを置いて答えた。
「いいよって」
「いいんだ?」
「うん。プロポーズじゃなかったのはがっかりだけど、でも断るようなことじゃないし、それに、なんか可愛いじゃない? お兄ちゃんとか」
「そーお? アタシはキモいと思うけど」
 琴羽がジュースを飲み干して、ウェイトレスさんを呼んだ。知らない人が見たら、自分のために呼んだと思うだろうけど、私にはわかる。琴羽は私のために呼んでくれたんだ。
 2人で2杯目のジュースを注文し終わってから、琴羽が私に言った。
「ってかさ、奏の彼氏って……」
「なに?」

「オタクなの?」

 * * *

「違うって。俺はオタクじゃない」
「何言っとんねん。どう考えてもお前はオタクやろ」
「何を根拠にそんなこと言ってんだよ」
 別に何かグッズを集めているわけでもないし、アニメやゲームにハマってるわけでもない。これでどうして、俺をオタクだと思うんだ。
「彼女にお兄ちゃん呼ばれたい奴がオタクちゃう言うほうが無理あるやろ」
「なんでだよ。普通だろ? それぐらい」
「ま、お前がそう思っとるんやったらそれでもええけどな」
 締観したような言い方。聡はこういうところが鼻につく。なんか自分がひどく子供じみているような、そんな気分にさせられる。
「てか、お前ふつうに妹おったやろ? その子にお兄ちゃん呼ばせたらええやんけ」
「あのなあ、実の妹にお兄ちゃんなんて呼ばれたら、気持ち悪いだろ」
「ぷ」
 聡が吹いた。
「ぷあははは! あほかお前それ、思いっきりオタクの考え方やんけ! あはははははは! あーははは! はは、っ、げほ、げほ、……ひーひひ、あはっ、あはははは! ……」
 ツボに入ったのか、フローリングの床の上で笑い転げる聡。
 俺のほうは全然笑えない。むしろなんで笑うのか理解できない。俺は普通のことを言っただけなのに。
 そもそも妹がお兄ちゃんだなんて、呼んでくれるとは思えない。あいつはいつも、俺のことを……

 * * *

「……あにうえ」
「なんだ、那奈」
 そう、こう呼ぶんだ。
 いつからこう呼ばれているのか、なんでこう呼ばれているのか、今となってはすっかり忘れてしまったけど、とにかく妹は俺のことを兄上と呼ぶ。
「おなかすいた……」
 どうせなら口調も時代劇っぽくすればキャラが立つのに、妹は中途半端だ。
「わかった。今から飯作るから」
「……ラーメン」
「駄目だ。ちゃんと野菜食わないと」
「……けち」
 こんなこと言いつつ、この妹は野菜炒めとかでもガツガツ食いやがるのだ。まあ作る側としては冥利に尽きるのだが。
 冷蔵庫をごそごそやりながら、後ろにいる妹に尋ねる。
「今日は学校どうだった? なんか変わったことあったか?」
「なにも、ない」
「そっか」
「いつも聞かなくても、なにかあったら話す」
「…………」
 とてもそうは思えない。文化祭の日取りすら聞かないと教えてくれなかったくせに。
 だけどそれを指摘すると拗ねるだろうから、適当に流すことにする。
「はいはい、わかったわかった」
「むう……」
 あ、ミスった。この声は拗ねたか。
 だけどまあ、いっか。飯食ってる間に機嫌直るだろ。
 不満そうな妹を放置。キッチンに立って、白菜を切る。
「なあ那奈」
「……なが1個おおい」
「うるさい、お前なんかナーナナだ」
「……おうぼう」
「それでさ那奈」
「なに?」
「お前も料理覚えたら?」
「…………」
「…………」
 とんとんとんとん……
「……あにうえ」
「なんだ?」
「私、こども」
「その言い訳は小学生じゃないと通用しない」
「高校生じゃ、むり?」
「中学生でも厳しいな」
「叙述トリックで、実は小学生だったみたいな……」
「その伏線どこで生かされるんだよ」
「心は小学生」
「お前が言うと本当にそうかもって思うよ」
「身体も小学生」
「それじゃあ普通に小学生だな」
「バス料金も小学生」
「マジで?」
「その名も、名探偵なーなな」
「探偵じゃなくて犯罪者だよな」
 バス料金はちゃんと払えよ。
「……うそ」
「良かった。ちゃんと払ってんだな、バス料金」
「身体はおとな」
「そっちか! あとなんかエロい!」
「……あにうえ、なに考えた?」
「そりゃもちろんお前の裸を」
「……この男は恥じらうということをしらないのか」
「おいおい何言ってんだ? 俺とお前は裸で遊んだ仲じゃないか」
「……小学生のときのお風呂をそんなふうにいうな」
「心は小学生だもんな。今日は一緒に……」
「死刑」
 背中に妹の正拳突き。結構痛かったけど、笑って流す。
「変態あにうえ、略してへにうえ」
「なんか宙に浮いていきそうだな」
「妹に欲情するなんて」
「安心しろ。お前は2番目だ」
「本気で言ってそうでこわい……」
「1番目はミクたんだ」
「恋人じゃないどころか、3次元ですらなかった……」
「恋人? ああ、奏か。いたなあ、そんな奴が」
「もしもし、カナデ?」
『なに? 那奈ちゃん』
「ちょわああい! マジで繋がってんじゃねえか!」
 ギャグじゃないのか! ってか早すぎだろ繋がんのが!
「……カナデは、3番目らしい」
『え? 何の話?』
「……もしかしたら、もっと下かも」
『ごめん、よくわからないよ。一から説明して?』
「うん、実は……」
「むわてええい!」
 俺は那奈から携帯を奪い取った。
「奏、誤解だ! ギャグなんだよ!」
『あ、瑛太く……じゃなくて、お兄ちゃん』
「おっふ……、ここでそれが来るか」
 確かに呼んでくれと言ったのは俺だけど。
 不意打ちで呼ばれると、ドキドキが半端ない。
『ふふふ。やっぱりなんか恥ずかしいね、お兄ちゃん』
「おお……!」
『それで、何があったの? お兄ちゃん』
「おおぉぉお……!」
 ヤバイ。ヤバすぎる。
 ただでさえ可愛い奏の声が、可愛さ100倍だ。吐息が一緒に聞こえてくるのが何とも言えない。
「……なに? お兄ちゃんって」
 那奈がドスの利いた声で聞いてくる。
「ああ、今度からお兄ちゃんって呼んでもらうことにしたんだ」
「私がいるのに……?」
「お前の呼び方は兄上だろうが」
「…………」
 なんか不満そうだ。
『ねえ、結局なんなの?』
 電話から奏が聞いてくる。
「あ、ワリ。なんでもないんだ本当に。ゴメンな」
『そう、ならいいけど……』
 なんでだろう。こっちも不満そうだ。
『また電話してね、お兄ちゃん』
 最後にもう一度ピンク色の声を残して、奏は電話を切った。
 俺は携帯を耳に当てたまま、しばし余韻に浸る。そんな俺の服の裾を、那奈が引っ張った。
「ん、なんだ?」
「おに……おにい……おに……」
「?」
「おにうえ……」
「変態を超えて鬼呼ばわりか……」
 彼女にお兄ちゃんと呼ばせるのは、そんなにおかしいことなのか? よくわからん。
「おにうえ、ご飯……」
「あ、ワリいワリい。すぐ作るよ」
 急いで鍋を火にかける。那奈はなぜか静かになってしまい、動き回る俺の後ろをただついてくるだけだった。
 そのあと、出来上がった晩ご飯を那奈と2人で食べた。
 野菜炒めに箸を伸ばしながら、今頃奏も飯食ってんのかなあとか考えた。

 * * *

 今頃瑛太くんも、ご飯食べてるのかなあ。
「こら奏。お箸くわえたままぼーっとしない」
「あ、ごめんなさい、お母さん」
「まったく、躾がなってないんだから。親の顔が見たいわ」
「…………」
「…………」
「…………」
「それで、何考えてたの?」
「えっとね、瑛太くんのこと」
「……あなたたち、本当に仲がいいわよね」
「うん。ラブラブだもん」
「言ってて恥ずかしくないのかしら」
「お母さんがお父さんのこと話す時も、相当恥ずかしいよ?」
「奏ほどじゃないわよ」
「そうかなあ……」
 自分のことは、よくわからない。
「まあ、それで日常生活に支障を来さないなら、どんなにラブラブでもいいけどね」
「大丈夫だよ。どんなに夜遅くても、次の日はちゃんと2人とも起きるんだから」
「……そういう意味で言ったんじゃないんだけど」
 本当に恥ずかしくないのかしら、とお母さん。確かに、この年にもなって真夜中にゲームしてるのは、子供みたいでちょっと恥ずかしいことなのかもしれない。
「最初に奏が瑛太さんを連れてきた時は、ひょろひょろで女の子みたいで頼りなくて、こんな人がお婿に来て大丈夫かと思ったけど」
「そんなこと思ってたんだ……」
「よくよく考えたら、そういう人のほうがこっちの言いなりになってくれそうで安心よね」
「お母さんって腹黒いよね」
「違うわ。私は腹黒いんじゃなくて、普通に黒いのよ」
「それ自慢気に言うことじゃないから」
「女はみんな腹黒いか、普通に黒いかのどっちかよ」
「暴論だね」
「私は腹黒い人間になりたくないから、黒くなることにしたわ」
「白い人になろうって発想はなかったんだ」
「優しい人のこと? そんな損な役回り、御免よ」
「そういうふうに考える時点で相当黒いと思うよ……。ご馳走さま」
「あら、もういいの?」
「うん、ダイエット中だから」
「ふうん、じゃあ私が奏の分も食べてあげるわ」
「…………」
 私は優しい人になろう。
 強く心に誓って、お風呂に向かった。

 お風呂場で服を脱いで、体重を量る。減ってない。やっぱりこれが限界なのかな。
 だけど鏡に身体を映してみると、まだちょっとくびれが足りない気がする。ただでさえ胸が控え目なんだから、お腹ぐらいはキュッと萎めたい。
 スタイルを崩したぐらいで瑛太くんに嫌われることはないだろうけど、それとこれとは別問題。
 両腕を上げてみたり、腰を捻ってみたり。色んなポーズをとってみるけど、やっぱり理想の身体には程遠い。
「……はあ……」
「奏?」
「きゃあっ!」
 ドアが開いてお母さんが! 私はとっさに両手で身体を隠した。
 そんな私を見て、お母さんは眉をひそめた。
「…………………何してたの?」
「……べ、別に何も?」
「ふうん……」
 悪いことしてた訳じゃないんだけど、なんだかすごく恥ずかしい。
 焦る私を、お母さんは遠慮のない目でなめつける。
「そ、それより、何か用事があったんじゃないの?」
 私は手で身体を隠したまま、尋ねた。
「あ、そうそう。あなた携帯置きっぱなしだったでしょう。瑛太さんから電話よ」
「お兄ちゃ……じゃなかった、瑛太くんから?」
「今なんか、あり得ない言い間違いしなかった……?」
「気にしないで。それより、入る時はちゃんとノックしてよ」
「何言ってんの。娘のお風呂にノックして入る母親が、どこの世界にいるのよ」
「え……、そういうもの?」
「そういうもの」
「ふうん……」
「電話。早く出ないでいいの?」
「あ、そうだった」
 お母さんから携帯を受け取る。
 お母さんがお風呂場から出ていってから、私は電話に出た。
「もしもし、お、お兄ちゃん?」
 やっぱり恥ずかしいなあ、この呼び方。瑛太くんが嬉しそうだから、いいんだけど。
『奏、なんか取り込んでたか?』
「え? ううん、どうして?」
『いや、なんか出るのが遅かったから』
「ああ、違うよ。ただね、今……」
 お風呂に入ってたから、と言おうとして、急に意識してしまった。
 私今、裸で瑛太くんと話してる。
 もちろん向こうから見える訳ないんだけど、なんか気恥ずかしい。
 私は意味もなく、お風呂場の隅で前屈みに座った。こうすれば、恥ずかしさが少しでも紛れるような気がしたから。
『どうした?』
「あ、ううん、何でもない」
『そうか?』
「うん。それより、そっちこそどうしたの?」
『ん?』
「用事があって電話してきたんじゃないの?」
『用事がないと、電話しちゃ駄目か?』
「あははは、その台詞、なんかドラマとかでありそうだね」
『うん、実は1回言ってみたかった』
「良かったね。願いが叶って」
『できたら今度は、奏に言われたいけどな』
「そのためには、お兄ちゃんがまずあの台詞を言ってくれないと」
『奏、俺今、歯に野菜が挟まってて取れないんだ……』
「楊枝がないと、電話できない?」
『……よくわかったな、今の振りが』
「あははは、伊達に長く付き合ってな……は、は、はくちゅっ!」
 言葉の途中で、くしゃみをしてしまった。
『おう、大丈夫か?』
 瑛太くんの心配そうな声が聞こえる。
「うん、大丈夫だよ。ただ、ちょっと寒くて」
『おいおい冬にはまだ早いって。風邪ひいてるんじゃないか?』
「ははは、違うよ。寒いのは服着てないから……あ」
 言っちゃった。や、別にいいんだけど。
『わかった。すぐお前の家に行く』
「ええ! なんでそうなるの!?」
『何言ってる。お前が服を着てない=俺がお前の家に行く。こんなのは小学生でもわかる、この世の真理だ』
「そんな世界嫌だよ!」
『例え世界がどうあろうと、俺はお前の裸を見るためにお前の家に行く。それは誰にも止められない。何を犠牲にしても、俺はお前の裸まで突き進む!』
「無駄にカッコいい!」
『惚れ直したか?』
「惚れ直した!」
 いえーい、と見えない相手にハイタッチ。なんかもう、自分でも何言ってんのかよくわからない。
『えーっと、マジな話。なんで裸なの?』
「あはは……。実はお風呂に入る直前でして……」
『ああ、なるほど。湯船に浸かってないのか? 電話防水じゃないとか?』
「ううん、そうじゃなくて。水の音でお風呂に入ってるって思われるの、なんか恥ずかしかったから。まあ、もういいんだけどね」
 そう言いながら私は、お風呂に入った。
 携帯に水をかけないように、ゆっくりと湯船に浸かる。
『今、お風呂入ったのか?』
「え? あ、うん」
『入浴中の女子と会話……』
 うぇっへっへ、と笑い声が聞こえる。怖い怖い怖い。
『お風呂、気持ちいいか?』
「う、うん。気持ちいいよ」
『どれくらいまで浸かってるんだ?』
「えっと、胸のちょっと上ぐらいかな」
『胸……』
 荒い鼻息が受話器の向こうから聞こえてくる。
「あ、あの、話変えない?」
『なんでだ? こんなに楽しいのに』
「うーん、私はあんまり楽しくないかな」
『俺も風呂に入ればいいのか?』
「それはなんか違う……や、かなり違うかな?」
 それをすると2人で一緒のお風呂に入ってるみたいで、なんかすごいエッチなことのように思える。
 とにかく、早く話題を変えよう。
「そうだ。次のデート場所、どうしよっか」
『混浴温泉だな。決まりだ』
「うん、とりあえずお風呂から離れよう」
『いや待てよ? そうすると他の男どもに奏の裸を見られることになる……』
「いや、行かないってば」
『そうだ! お前んちの風呂にしよう! これなら見るのは俺だけだ!』
「だめだ、この人救いようがないよ……」
『スクール水着がないだと!? アリに決まってるだろうが!』
「お兄ちゃんってロリコン?」
『そうだぞ。知らなかったのか?』
「じゃあ同い年の私は理想の彼女じゃないの?」
『あのな奏。2次元と3次元は別物なんだ。わかりやすく例を挙げると、縞パンは2次元、黒は3次元。つまりはそういうことだ』
「ごめん、わかんないや」
『これを語り出すと一晩かかるがよいか?』
「よくないです」
 のぼせるって。
『まあ、奏は女の子だからわからなくても無理ないよな。男の聡ですらわかってないんだから』
「聡くんとどんな話したの?」
『いやな? あいつが、妹にお兄ちゃんと呼ばせればいいとかなんとか言うからさ』
「那奈ちゃんにお兄ちゃんって呼ばれたいとは思わないんだ?」
『ああ。2次元の妹は可愛いけど、3次元はなあ……』
「那奈ちゃん可愛いのに」
『そりゃ妹としては可愛いよ。でも、女の子としてじゃないだろ』
「まあ、そうだろうね」
『やっぱりお兄ちゃんって呼ばれるなら、女の子として好きな相手に呼ばれたいよな』
「…………」
 そこがよくわからないんだけど、これも私が女だからなのかな。
「でも……」
 私は考えながら言った。
「那奈ちゃんは、お兄ちゃんのこと好きだと思うけどな」
『兄としてだろ?』
「ううん。男として」
『んな訳ないだろ。本の読みすぎだって』
「そういう本があるの?」
 兄妹愛を書いた本……。なんか危なそう。
『心配しなくても、あいつは普通だよ。きっと彼氏の1人や2人、いるんじゃないか』
「2人もいたら駄目だと思う」
 うーん、心配のしすぎかな。私と瑛太くんが喋ってる時の那奈ちゃんの仕草を見て、もしかしたらって思ったんだけど。
「でも実際、那奈ちゃんは付き合ってる人っているの?」
『いや、知らないけど。でも好きな奴ならいるって、こないだ言ってたぜ』
「あ、そうなんだ。好きな人、いたんだね」

 * * *

「……いない」
「そんな訳ないじゃーん」「もうっ、恥ずかしいからって」「あ、でも那奈ちゃんならそれもアリかも」「えー? にゃー子じゃあるまいし」「にゃー?」「はいはい、いい子いい子」
 どうしよう。
 この話題はまずいかも。私の好きな人なんて、言えるわけない。言ったら引かれるに決まってる。
 こんな話になるなら、一人で先に教室を出たら良かった。
「本当はいるんでしょ? ナナ」「もうっ、やめたげなよ」「どうなの?」「気になるなあ」「にゃー」
「い……いないっ」
 どうしたら信じてもらえるのかな。
 しゃべるのはあんまり得意じゃないから、こういう時になんて言ったらうまくごまかせるのかわからない。
「あ、もしかして、知られるとマズイ相手なんじゃ……」
 ぎくっ。
「あ、図星だぁ」「え、そうなの?」「フ・リ・ン! フ・リ・ン!」「やめたげなよー」「フリンってなに?」「教えてあげよう。不倫というのはだね」「プリンのことじゃないよ」「フリルでもないね」「ちなみに私はフリーよ!」「聞いてない」「にゃー」
 良かった。冗談で流してくれそう。
「それで?」
 詠美ちゃんが私を見る。
「ナナは誰が好きなの?」
「う……」
 流してくれなかった。
「私たちの好きな人だけ聞いといて、自分は話さないなんてないよね」
「い、いない、いないの」
「嘘だあ。いるに決まってるじゃん」
 これは本当にピンチかもしれない。言わないと許してもらえそうにない。でも言ったら、私はもうおしまいだ。
 そうだ。適当な男の子の名前を出したらいいんだ。
「キ、キシカワくん」
 私は、その時偶然目に留まった名前を口に出した。黒板に書かれた、日直の名前だった。
「勇人ぉ?」「ええ~、なんでぇ?」「あいつのどこがいいの?」「そんなこと言わないであげようよ」「いやでも勇人は」「アタシこの前あいつにペンのふた壊された」「サイテー」「にゃー」
「(ほ……)」
 なんとか誤魔化せたみたい。
 岸川くんのことが好きだって思われたのは嫌だけど、でも本当のことを言うよりはいい。
 だって、私が本当に好きな人は……

 * * *

「瑛太ァ!」
「はい!」
「車!」
「カイッス!」
 俺はスコップを置いて、ダンプカーに乗り込んだ。
 土の入ったダンプを移動してから、元の作業に戻る。
「うし、これで終いだな」
「ですね」
「あの……」
 俺と先輩が話してるところに、新入りの樹くんが話しかけてきた。
「次は、何をすればいいのでしょうか?」
「おい、瑛太」
「はい。……えっとな、もうすぐアスファルト来るから、来たら舗装だ。で、準備しなきゃだから、とりあえず水汲んできてくれ。ジョーロあそこ。あっちのバルブ捻ったら水出るから」
「わかりました!」
 樹くんは、新入りらしくダッシュで水を汲みに行った。
「瑛太より物覚えいいな」
「すみませんねえ、物覚え悪くて」
 先輩は機械にガソリンを入れながら、俺はスコップとかを油に浸しながら、話す。
「その分、力がないな。お前はそんなんでも、意外と力あるから」
「そんなんって、なんすか」
「あいつ、今夜はヤバいだろーな」
「筋肉痛っすか?」
「ああそうだ。くそ、今夜予定入れてなけりゃ、俺があいつの家まで行ってマッサージしてやるのに。ぐひひ……」
 またホモ先輩の悪い癖が出た。
「見ろよアレ。ほんと、うまそうなケツしてるよな」
「先輩先輩、顔がヤバいっすよ」
「お前はなんとも思わないのか? 変態のくせに?」
「俺は変態じゃないっすよ。仮に変態だとしても、男には興味ないし」 
「違う、あいつは男とは言わない。男の娘と呼ぶべきだ」
「…………」
 聞いただけで漢字がわかってしまうのがなんか悔しい……。
「お前も見込みはあったけどな。性格がそれだとなァ」
「見限られてこんなに嬉しいことはないっすね」
「だがあいつは、見た目も中身も俺の好みだ。これから一緒に仕事できると思うと、よだれが止まらねえぜ」
「俺は不安が止まりません……」
 果たして、樹くんはいつまで純潔を守り通せるのだろうか。
「先輩、汲んできました!」
「お疲れ。ダンプ来るまで休んでていいから。はい缶コーヒー」
「あ、ありがとうございます!」
 お礼の言葉にすら、無駄に気合いが入っている。なんだか微笑ましい。俺も最初はこんなだったっけ?
「あの……先輩」
 樹くんが、おずおずと上目遣いに聞いてくる。お前は女子かと言いたくなる。
「なんだ?」
「さっき、もしかして僕の話をしていましたか?」
「ああ、まあな」
「何の話ですか?」
 聞きにくいことをさらっと聞いてくる奴だ。普通、こういうのは内容が怖くて聞くに聞けないものなのに。
 そして実際に、さっきの話はこの後輩にとっては怖すぎる。明日からホモ先輩に近づけなくなること請け合いだ。さて、どう誤魔化したらいいか……。
「なんてことねーよ」
 俺が考えてる間に、先輩が答えてしまった。
「ただ、瑛太が帰りにお前のことを駅まで送ってやりたいって言ってたんだ。なあ?」
「はあ、まあ……」
 別にいいけど。
「そんなっ、悪いですよ!」
 樹くんがブンブンと首を振る。よく回る首だなー。
「遠慮すんな。先輩の好意には甘えとけ」
 自分が送るわけでもないのに、やたら偉そうなホモ先輩。
「でも……」
 樹くんは伺うように俺を見た。だからお前は女子か。
「帰り道の途中だから、俺は全然迷惑とかないぞ。お前が嫌ならいいけど」
「いえ! そんな!」
 樹くんは、しばらく考え込む素振りを見せた後、「それじゃあ、好意に甘えさせていただきます」と言った。
「おい瑛太。送り狼はナシだからな」
「先輩じゃないんだから……」
「狼がどうかしたんですか?」
「いや、なんでもないよ。気にするな」
「瑛太に襲われないように気をつけろってことだ」
「先輩は黙っててください!」
「あの……、僕、男なんですけど……」
「甘いな。世の中には男でもいいって奴がいるんだよ」
「まるで他人事みたいな口調っすね、先輩」
「そりゃあ俺はノーマルだからな」
「狼に食べられてしまえ」
「? ??」
 よくわかってない顔の樹くん。よっぽど先輩の特殊性癖について教えてあげようかと思ったけど、その前にダンプがやってきて、説明する暇はなかった。

 辺りが薄暗くなる頃、ようやく仕事が終わった。
「じゃあ、先に上がります。あざーっしたー」
「おう、お疲れ。樹もお疲れ」
「ありがとうございましたっ」
 樹くんと一緒に、俺の車に乗り込む。車に乗る時も樹くんは、「失礼します」なんて言ったりして、恐縮しっぱなしだ。
 かと思ったら、発進して1分も経たない内に寝てしまった。神経が細いのか太いのか、よくわからない。
「すー……、すー……」
 いや、違うか。それだけ疲れたんだろう。せめて駅に着くまでの間、ゆっくり寝させてやろう。
「……にしても、寝顔まで女の子だな」
 本当の性別を知らなかったら、俺も危なかったかも知れない。それぐらい可憐な寝顔だ。
「……むにゃむにゃ……せんぱぁい」
「はいはいなんだ」
 寝言と知りつつ返事してやる。
「せんぱぁい、えへへ……」
「なんだよ。ったく、幸せそうに笑いやがって」
 こっちまで笑いたくなるじゃねえか。
「せんぱい……」
「ん?」
「すき」
「……!」
 心臓が止まるかと思った。
「やき」
「……!」
 違う意味で、心臓が止まるかと思った。
「くうき……げんき……つ、つ、つばき……」
「……しりとりか?」
 夢の中で、俺は"き"攻めされてるのか?
「えーっと、キリマンジャロ?」
「ろ、ろ、ろけっとはなび……」
「"き"じゃないのかよ」
「……の、くうき」
「お前は小学生か」
 思わず頭にチョップ。
「いたっ。あれ? ここ……」
「おう、もう着くぞ」
 都合がいいことに、ちょうど駅に着くところだった。寝言につっこんで起こしたなんて知られたら、心象が悪くなるところだった。
「あ、あ、す、すみませんっ。寝てしまって」
「気にすんな。それよりお前、そんな疲れてて明日も来れるのか?」
「あ、はい。一晩休めば、たいてい良くなるんです」
「そっか……。よし、着いたぞ」
 駅の前に車を止める。
「ありがとうございました」
 車を出てから、眠そうな声でお礼を言う樹くん。
 俺が「お疲れさん」と言うと、もう一度おじぎしてから、改札口のほうに歩いていった。だけどその足取りはふらふらのゆらゆらで、見てる俺のほうがはらはらしてくる。
 俺は仕方なく車から出て、樹くんを追いかけた。
「おい」
「あ、先輩。帰られたんじゃ……」
「そんなふらふらな奴放っとけるかよ。やっぱ家まで送る。来い」
「でも……」
「文句言うな」
 俺は樹くんに肩を貸してやりながら、車に向かって歩き出した。
「ここまでしてもらわなくても……」
「黙って見てるほうがめんどくさい。大人しく言われた通りにしろ」
「……先輩、優しいんですね」
「はあ?」
「先輩って、もてるでしょう?」
「んな訳ねえだろ」
「そうなんですか?」
「ああ」
「……こんなにいい人なのに……」
「その台詞、女の子に言われたかったな」
「先輩、今度の休みにでも、泊まりがけでうちに遊びに来ませんか?」
「なんだよ急に」
「いえちょっと……。先輩と一夜を過ごすのは、楽しそうだなと思って」
「…………」
 他意はないはずだ。
「そうだな。気が向いたら行くよ。お前と2人なら、寝ても大丈夫だろうし」
 ホモ先輩がそこに噛んできたら、絶対に安心して寝られないだろうけど。

 * * *

 ――先輩と一夜を過ごすのは、楽しそうだなと思って。
 ――そうだな。気が向いたら行くよ。お前と2人なら、寝ても大丈夫だろうし。
「…………」
 鞄が、手から落ちた。

 * * *

『やあ、久し振りだね』
「ほんと、久しぶり。もう来ないなんて言ったけど、結局来ちゃった」
 明るい声が出たことに、自分でも驚いた。
 気分は最悪なのに。
『気にしないで。僕は君がここに来てくれて嬉しいから』
 その人は、2年前と変わらない姿で公園のブランコの前に立っている。ちょっと堅い口調も2年前と変わらない。
『それで、今日は何の用だい?』
「うん……」
 街灯の回りを、虫が飛んでいる。
 たくさん、飛んでいる。
「お兄ちゃんが、知らない女の子と歩いてた」
 とりあえず、頭に浮かんだままの言葉を口にした。
『お兄ちゃん?』
「知ってるくせに。瑛太くんのことだよ」
『ああ、瑛太くんね。彼女にお兄ちゃんと呼ばせる、変態鬼畜野郎だね』
「お兄ちゃんのことをそんな風に言わないで……」
 彼の言葉を冗談として流せない自分に気づく。追い詰められてる。私は。
 誰に?
『だけど、君もわかってるだろう? 彼は変態だ』
「う、ん……。でも、変態でもいいの。お兄ちゃんはお兄ちゃんだから、私は変態でも好きなの」
『ノロケかい?』
「違うよ。ただの、本当のこと」
『じゃあ、問題ないじゃないか』
「うん……ううん、そうじゃなくて。私が好きでも、お兄ちゃんは私のこと好きじゃないのかもしれない」
『どうしてそう思うんだい?』
「まだなの……」
『何が?』
「…………」
 そうだ。
 知らない子と歩いてたこととか、その子と肩を組んでたこととか、寝る話をしてたこととか、そんなことだけじゃないんだ。 あんなのは冗談みたいなものだってことは、聞かなくてもわかる。
 ただ、私は自分に自信がなくて……。
「お兄ちゃんはすごく変態で、私にもエッチなことばっかり言ってきて、階段登る時に振り返ったらいつも下でしゃがんでハアハア言ってるような変態だけど、でもね……」
『でも?』
「…………」
『なるほど、そういうことか』
 何も言ってないのに、わかられてしまった。
 そういえば彼はこういう人だった。心を読まれるのは普段なら嬉しくないけど、今だけはありがたかった。それは、できれば口にしたくない言葉だったから。
『そういえば君はそういう子だったね。肝心なところだけは言わないで、口を閉ざす。まあ今回の件に関して言えば、それが正解なのかも知れないけどね』
「…………どうしてなのかな?」
 彼ならわかってくれる。そう思っての問いかけだった。
『さあ? 僕にもわからないよ」
 案の定、彼は私の問いかけの意味はわかってくれていた。でも、その答えは「わからない」だった。
『ただ単に口先だけのヘタレなんじゃないのかい?』
「どうしてさっきからお兄ちゃんに辛く当たるの?」
『別にそんなつもりはないんだけどね』
 とてもそうは思えない。
 納得できない私の思いも彼には伝わっているんだろうけど、彼はそれに対して何かを言ってくることはなかった。代わりに『解決策を教えようか』と言った。
「解決策?」
『そう、解決策。言えばいいんだよ、君が望んでることをね』
 望んでいること。それが何のことか、わからない訳がなかった。
「無理だよ、そんなの……」
『おや? その口ぶり、僕が何のことを言っているのか、わかったのかい?』
「…………」
 今日の彼は、なんだかイジワルだ。
 どうせ心は読まれている。私はあからさまに嫌な顔をしてやった。それでも彼は、貼り付けたような笑みを浮かべ続けていた。
『ねえ、僕たちのこの会話、滑稽だと思わないかい? ここにいるのは僕たち2人だけで、他に誰も聞いてない。なのに僕たちはお互いに、奥歯に物が挟まったような物言いだ。まるでカメラに撮られて全国放送でもされているみたいにね。もうやめないか? 自分を偽るのは。君は君の彼氏と同じ、変態で、エッチで、いやらしい女の子だよ』
「わかってるよ……」
 今さら言われなくてもわかってる。わかり過ぎるほどにわかってる。
 でも口に出したら、何かが壊れてしまうような気がするし……
「お兄ちゃんに、嫌われたくない……」
『嫌われるだって? 変態だと、嫌われるのかい?』
「うん……」
『わからないね。変態同士のカップルなんて、完全に利害が一致していると思うけど』
「そんなことないよ……」
 瑛太くんはあれで、割と女の子に幻想を抱いてるタイプだ。その幻想を壊したくないから、2次元に夢中になってるんじゃないかと思う。
『怖がりすぎだと思うけどね』
「怖いよ。だって、私たちはまだ……」
 まだ……
 ……だから。
『本当にそのせいだと思うかい?』
「え?」
『身体が繋がれば心も繋がるだなんて、本当にそう思っているのかい?』
「それは……」
『もしそうだとしたら、どうして君は「彼」と別れたんだろうね?』
「!」
 彼。
 過去の記憶が蘇る。二年以上前。瑛太くんと出会う前の記憶。
『むしろ君が不安に思ってるのは、そっちなんじゃないか?
 彼に隠し事をしてるのが怖くて、それがバレるのが怖くて。
 今の彼氏の浮気を疑ったせいで、自分の不純さを自覚した。
 まあ処女しか駄目だなんて男は、別れたほうがいいかもね』
「違う。瑛太くんは、そんな人じゃない」
『そんな人じゃないだろうね』
「ただ、私が……、私が『拓也くん』とのことを秘密にしてるから悪いの」
 もっと早くに話してれば、そしたらこんな風に悩まないで済んだのに。
『だから今から話そうって言うのかい? 話して楽になろうって?』
「……だめ?」
『駄目じゃないけど、彼は困るだろうね。急に自分の彼女が、思い詰めた顔で非処女宣言してきたら』
「どうして?」
『彼にとっては、そんなことどうでもいいから』
「え……?」
 どうでも、いい?
『おいおいそんなに驚くことかい? 君の彼は処女じゃなくてもOKだって、さっき話したばかりじゃないか』
「でもそれは、別れるかどうかって話で……。それにお兄ちゃんは、女の子に幻想を抱くタイプで……」
『君の彼は、2次元と3次元の区別もつけられないのかい?』
 この前、ちょうどそんな話をした。
 その時に瑛太くんは言っていた。「2次元と3次元は別物だ」って。
『君が処女かどうかなんてそんな話、普段のギャグパートで言っておけばいいんだよ。シリアスパートでする話じゃない。でもどうしても話したいというなら、止めはしないよ。きっと聞く価値もないようなテンプレ台詞が聞けるんだろうけどね』
「…………」
 確かに、そうかもしれない。瑛太くんなら。
 私は、自分の物差しで考えてた。それで勝手に追い詰められてた。瑛太くんは私とは違うのに。違うから、好きになったのに。
 彼の言う通りだ。瑛太くんはきっと困る。私が打ち明けたあとの、瑛太くんの困った顔が想像できる。ああそうだ。瑛太くんって、そういう人だった。
「なんで、忘れてたんだろう……」
 心が明るくなった。暗い部屋に日差しが差し込んできたみたいだった。
 でも……。
 私は携帯を手に取った。
 電話をかける。
「もしもし、お兄ちゃん? 今、近くの公園に来てるんだ。話したいことがあるから、来てくれないかな?」
 瑛太くんは、すぐに行くと言ってくれた。
 私は電話を切って、携帯をポケットにしまった。
 彼と目を合わせて、言う。
「やっぱりお兄ちゃんの口から、聞きたい。ありきたりな言葉でもいいから、聞きたい。お兄ちゃんを困らせることになっても、聞きたい。だって、妄想だけじゃ満足できないから」
『……君がそうしたいなら、そうすればいいよ』
 彼は、苦笑いだった。
『だけど折角の読みにくいシリアスパートで、大した盛り上がりも見せず結末がありきたりだなんて、読者からは苦情殺到だろうね』
「なんの話?」
『こっちの話だよ』
 言いながら彼は、ブランコに腰掛けた。
 そのままブランコごとくるくる回る。ある程度回ったところで足を離した。
『おおおおおお……!』
 反対方向に回る。すごいスピードでぐるぐる回る。回りながら、笑ってる。
『ああ、目が回るなあ』
「何がしたいの?」
『何がしたいんだろうね?』
 ついていけない。
 苦笑いしながら、私も隣のブランコに座った。
 普通に漕ごうとして、ちょっと考えて、くるくる回ってみた。足を離す。
「わあああああ……!」
 目が回る。でもなんか楽しい。
『だろ?』
「人の心を読まないで」
『懐かしいね。2年前を思い出すよ』
「記憶を捏造しないで。こんなことしたのは今のが初めてだよ」
『そうだっけ?』
「そうだよ。……ねえ」
 私は隣に座る彼の腕を掴んだ。
 否、私の手は彼の腕をすり抜けて、ブランコの鎖を掴んだ。
「これからも私と一緒にいて」
 私は彼の目を見た。
 その姿と声だけが、彼がこの世界に現す全てだった。
『なるほど。二股かけようって訳だね』
「…………」
『…………』
「…………」
『君は酷い奴だな』
「今のはあなたが悪いと思う」
 瑛太くんじゃないんだから、そんな微妙なボケにはツッコめない。
 彼はわざとらしく肩を竦めてから、私の手を包み込むように片手をかざした。うっすらと、体温を感じたような気がした。
『だけど、いいのかい? 2年前に君自身が言っていたこと、忘れたわけじゃないだろう?』

 ――ごめん、あなたのこと嫌いなわけじゃないけど。

 ――あなたと話してると、私が変な目で見られるの。

 恥ずかしい。消えてしまいたい。
 最低だ。友達にあんなこと……。最低だ。なんであんなこと言ったんだろう。
 私はいつもそうだ。思い込んで、周りが見えなくなって、結局後悔して。今度こそはと思って、それでもまた失敗する。変わらない。変われない。
 そんな私のせいで悲しませた人が、目の前にいる。何が久しぶり、だ。それより先に言わないといけないことがあったのに。
「ごめん……」
『君は勘違いしているよ』
「え?」
 顔を上げると、彼はひどく冷めた目つきをしていた。背筋が縮こまるほどの、それは冷たい表情だった。
『君のしたことは間違っていない。間違っているのは、過去を悔いている今の君だ』
 彼は言う。自分と会おうとすることは間違っていると。会わないことが、正しいことなのだと。
 自虐とかじゃない。彼は純粋に私のことを考えて、そう言っている。今ひとつ感情の読めない彼だけど、そのことだけはわかった。
「どうして……?」
『君はもう寂しくないからだよ』
 彼がブランコを漕いで、飛んだ。降り立ったのは手すりの上だった。ふらつくことなく自然体のままで立っていて。その様は、この上なく不自然だった。
『君は寂しかった。だから願って、だから僕が生まれた。拓也くんと付き合っている時も、心が満たされることはなかった。でも今は違う。君は満たされているから、僕はもう必要じゃない』
「必要、とか……!」
 胸が詰まって、思わず私は叫んでいた。
「なんでそんなこと……自分を物みたいに言うの!? 必要とか、必要じゃないとか、必要だから会わないって、そんなのおかしいじゃない!」
『物だよ』
「――ッ!」
 言葉が。
『どころか、物ですらない』
 彼は心底からそう思って言っている。それがわかるからこそ、わからなかった。平然とそれを言える彼の気持ちが。
 自分を「物」と認めて、それでもそんな顔ができる彼がわからなかった。
「あなたは……」
『君には教えない。僕が何なのかは』
 質問を先回りされた。そしてその答えは、拒絶だった。
「どうして……」
『それが君の真の望みだからさ』
 彼が、薄れていく。
『僕が何なのかわかってしまえば、君は僕の言葉を真摯に受け止められなかった。僕が何かわからなかったからこそ、君はその神秘性に惹かれて、ここを訪れていた』
「……っ!」
 言いたかった。違うって。でも違わない。きっと、彼の言う通りだ。私はズルいから。
 でもだからって、何も言わなかったら……。
 彼が、もうほとんど見えない。それは彼が薄れているせいでもあるけれど、私の視界がぼやけてるせいでもある。
 彼が微笑む。
『嬉しいな。僕みたいな奴のために泣いてくれるなんて』
「だって……、だって……」
 自分のことが憎かった。2年前は自分から離れていったくせに、今は涙を流していて。その涙も、自分の涙なのに信じられなかった。
『ありがとう』
 彼は言う。
 こんな私に、そんな言葉をかける。涙がさらに溢れ出た。
『最後に、君に言っておきたいことがあるんだ』
「……っ、……なに?」
『彼氏がいる人にこんなこと言うのは、良くないんだけどね。でも僕……』

 ――君のこと、好きだったよ。

『特に、顔が』
「……こういう時にギャグを言う人、私は嫌い」
 これが、最後の会話だった。

 * * *

「あなたは……」
 奏の声が聞こえる。
「どうして……」
 1人で何か喋っている。
「だって……、だって……」
 涙まで流して。
「……こういう時にギャグを言う人、私は嫌い」
 そして最後に、
「ううん、やっぱり好きだよ。私も、あなたが好き」
 そう言って、それから奏は何も言わなくなった。
 俺はもう一度、奏の周りを見回す。暗闇に包まれた公園にいるのは奏一人で、他には誰もいない。
 俺は奏に、おそるおそる近づいていった。
「あの……奏?」
「あ、瑛太くん……」
 奏が泣き顔でこっちを見た。
「瑛太くん……」
 俺と目が合うと、その泣き顔が更に歪んだ。可愛い顔が台無しだった。
「うあああんっ! ああっ、あ、うあああんっ!」
 奏が声を上げて泣いた。俺の胸にしがみついて。
 なんで泣いてるのかはさっぱりだけど、頼られてる感じがして悪くないシチュエーションだった。

「あの……どこから見てたの?」
 公園のベンチで2人。泣き止んだ奏が、おずおずと聞いてきた。その目の周りはまだ赤い。
「どこからって……。『なんで自分を物みたいに言うの?』ぐらいから」
「そんなに前から……」
 どうしよう、と悩む素振りの奏。
 俺も悩んでいた。言いたいことがある。これは果たして、言ってしまっていいものなのか。
 でも言わずに放っておいたら、後でもっと大きな問題になるかもしれない。やっぱり言っておこう。
 俺は奏のほうに身を乗り出した。
「あのさ、奏……」
「や、あの、違うの」
「違う?」
「そうなのっ。別に私は、ヘンな子とかじゃないんだよっ」
「ヘンな子?」
「だから違うんだってば!」
 奏はなんか必死だ。
「1人で喋ってたんじゃなくて、や、1人で喋ってたんだけど、でも私にしか見えない人がいてっ、あ、頭がヘンになったとかじゃなくて、その、よくわかんないんだけど、なんだろ、えっと、教えてくれなかったし……、でも、とにかく……」
「いや、それはいいんだけどさ」
 俺がそう言うと、奏はピタッと動きを止めた。
 そして口をへの字に曲げる。
「うー、信じてないー……」
「信じるも何も、ろくな説明されてないんだが……」
 今日の奏、被害妄想入ってんな。可愛いからいいけど。
「でも、だいたいのことは理解できたよ」
「本当に?」
「本当だって。その上で聞きたいんだけど」
「なに?」
「話してた奴は男か? 女か?」
「ふぇ?」
 奏がポカーンって顔になった。
 それから、わなわなと震え出した。
「ま、まさかお兄ちゃん、女の子だったら会ってみたいとか言い出すんじゃないよね?」
「あ、確かにそうだな。その発想はなかった」
「あれ? そうじゃなかったの?」
「違う。それより早く答えるんだ。男か? 女か?」
「えっと、男の人、かな」
「年は?」
「なんでそんな……」
「いいから」
「…………。私と、同じくらい」
「同い年の男……」

 * * *

 なんでこんなことを聞かれないといけないんだろう。
 わからなかったけど、今日の瑛太くんはなんだか強引だったから、私はとりあえず聞かれた質問に答えた。
「同い年の男……」
 質問が終わると、瑛太くんは何か考え始めた。
「あの……お兄ちゃん?」
 私が呼び掛けても、返事してくれない。
 困り果てていると、瑛太くんがぼそっと言った。
「……浮気だ」
「え?」
 瑛太くんは突然ベンチから立ち上がると、大きな声で叫んだ。
「浮気だ! これは浮気だ!」
「お兄ちゃん……?」
「夜中に俺以外の男と会って、しかも『私も好き』だなんて、100%浮気だ!」
「や、ちょっと待ってお兄ちゃん」
 なんかの冗談だよね?
 そう思うんだけど、瑛太くんの目は本気だった。
「あのね、お兄ちゃん。相手は人間かどうかもわからないんだよ?」
「関係あるか! お前が同い年の男と認識してる時点で、その可能性は十分にあるだろ!」
「お、お兄ちゃんはどうなの? 人間かどうかわからない相手と、付き合えるの?」
「付き合える! そこに愛があれば!」
 なにこの人。無駄にカッコいい。
「くそっ。俺がせっかく沙織と別れたのに、奏は別の男と会ってたなんて……」
「え?」
 沙織?
「鈴音も、和香奈も、エリザも、付き合ってる人がいるからって言って別れたのに」
「ちょっと待って。誰、それ」
 そんな話、聞いてない。
「こんなことなら、別れなかったら良かった!」
「!!」
 一番聞きたくない言葉だった。
「瑛太くん……? 今、なんて?」
「別れなければ良かったって言ったんだ! みんな、みんな俺の大好きな女の子たちだったのに……」
 ヤバい。この人、なんか色々ありえない。
「へー。瑛太くんは、私よりその子たちのほうが大事なんだね」
「誰もそんなこと言ってないだろ! ただ、奏が浮気するなら、俺もって……」
「なにそれ! 私浮気してないもん! 浮気してるのはそっちだよ! そんなにたくさんの人と付き合ってたなんて!」
「今は付き合ってないんだからいいだろ!」
「良くないよ! どうせ童貞って言ったのも嘘だったんでしょ!」
「なんでそんな屈辱的な嘘をつく必要があるんだ!」
「私は童貞のほうが良かったの!」
「変態か!」
「瑛太くんに言われたくない!」
「だいたいな、童貞って響きが嫌なんだ! なんだそれ! 処女と意味的には同じはずなのに、なんで男だとショボく聞こえるんだ!」
「そんなの私に言わないでよ!」
「女のセクシーギャルが、男だとむっつりスケベになるのも業腹だ!」
「何言ってるの!?」
「ステータスもセクシーギャルのほうが高いし!」
「だから何言ってるのかわかんないって……あ、ドラクエⅢ!? 今関係なくない!?」
「男勝りがあるなら、オネエ系があってもいいだろ!」
「なった瞬間にリセットボタンだよ!」
「男だって神秘のビキニ装備したい!」
「もうそれ危ないゲームだから!」
 そこで私は、ハッと気がついた。
「うやむやにしないで! 瑛太くんが謝るまで、許してあげないんだから!」
「こっちの台詞だ! お前が浮気を認めるまで、俺は許さない!」
「浮気じゃないったら!」
「もういい!」
 そう言って、瑛太くんは帰っていった。私も憤りながら家に帰った。
 その日私は、ずっと苛立ったままだった。
 でも次の日に目が覚めた時、私の中にあったのは苛立ちじゃなくて後悔だった。

 * * *

「私、最悪だ……」
「いつまで落ち込んでんのよ」
「だってぇ……」
 自分が言われたくないことを全部言ってしまった。激しく自己嫌悪だった。
 テーブルに突っ伏す私を、隣のボックス席の小さい男の子が物珍しそうに見ていた。なんとなく手を振ったら、笑顔で振り返してきた。癒される。
「だったら謝ればいいじゃない」
 琴羽が軽い口調で言った。
「だけど……そのためには拓也くんのこと話さなきゃだし……」
「話せばいいじゃない。そのつもりだったんでしょ?」
「そうなんだけどぉ……」
 私がそう言うと、琴羽が「はあ……」とため息をついた。うぅ、呆れられてる……。
「まあそれはそれとして、アタシにはちょっと疑問なんだけどね」
「なにが?」
「あんたの彼氏が何人もの女と付き合ってたって話」
「?」
 琴羽が何を言いたいのか、わからない。
「だってあんたの彼氏が、そんなにモテるとは思えないし」
「そんなことないよ!」
 私は叫んだ。
「お兄ちゃんはすごく優しくて、無駄にカッコよくて、それでいて可愛い、私の理想の男の人なんだから!」
 前のめりに叫ぶ私を、琴羽がどうどうと宥める。
「わかったわかった。わかったから、ちょっと声落として。あんた今自分が何を叫んだか、わかってる?」
「え? お兄ちゃんが優しくて、カッコよくて……」
 そこまで言って気づいた。これって知らない人が聞いたら……
「お兄ちゃんが理想ですって」「近親相姦というやつですな」「やらしい」「変態」「いいなあ」「いいの!?」「あ、ごめん間違えた」「本当に間違えたのか!?」「コレゾ日本文化デスネ?」「ジェーン、違う」「日本が終わる」「世も末」「世紀末」「ちょっと意味違う……」「私は応援するわ!」「ええ!?」「俺もだ! 近親婚の何が悪い!」「何ィ!?」「日本の法律を知らんのか」「ママー、きんしんこんってなあに?」「こらっ、聞いちゃダメ!」「被害者がいないのに取り締まる法律がおかしい!」「法律以前の問題だろ……」「そういう凝り固まった考えがいじめを生むんだ!」「関係ねえだろ」「関係ある! なあ、あんたも何か言ってやれ」「ごめん、私のは冗談だったから」「何ィ!?」
 私を置き去りにして、話は勝手にヒートアップしていく。
「あんたはどうだ! 何か言いたいこと、あるだろ!?」
 近親婚を熱く語ってる人が、私に振ってきた。
「や、あのぅ……」
 私はうまく答えられない。
 そしたら代わりに、琴羽が答えてくれた。
「この子は彼氏のことをお兄ちゃんって呼んでるだけで、別に兄妹じゃないわ」
「ブルータス、お前もか!」「それはそれでどうかと思う」「彼氏をお兄ちゃん呼び……」「コレモ日本文化デスネ?」「だから違うって」「世紀末」「それも違う」「いや俺そっちなら理解できるわ」「キサマ変態か!」「お前が言うな」
「行くわよ、奏」
「え、琴羽?」
 大きくなる騒ぎの中、琴羽に手を引かれて、私は店を出た。


「良かったのかなあ、出てきて」
「アタシは逆に聞きたいわね」
 先を歩く琴羽が、振り向かずに言う。
「出てきて何が悪いの?」
「だって、お店に迷惑かけちゃったし……」
「アタシたちは悪くないし、アタシたちがいたほうが迷惑よ」
「うーん……」
 でもやっぱり罪悪感が……。
「そんなことより、もう一つ疑問があるのよ」
「え?」
「なんで奏がそんな嘘をついたのか」
「嘘?」
 私、嘘なんかついたっけ?
 琴羽が立ち止まって、振り返った。私の顔を見る。
「だって嘘でしょう? 小さい頃から自分にしか見えない友達がいたって話は」
「あ」
 そうだ。
 こんな話、誰も信じない。信じるわけがないんだ。
「…………」
 道の真ん中で向かい合う私たちを、せっかちそうなおじさんが舌打ちしながら避けていった。
 それでも私たちは、向かい合って、黙ったまま。
「…………」
「……奏が話したくないなら、いいけど」
 琴羽はそう言って、また歩き出した。
 私はその後を歩きながら、心にぽっかり穴が開いたような気分だった。

 瑛太くんが簡単に信じてくれたから、誰でも信じてくれるって勘違いしてしまった。
 だけど、普通の人は信じない。おかしいのは瑛太くんのほう。
 わかってたはずなのに。
「はあ……」
 わからない。
 瑛太くんは、どうして信じてくれたんだろう。

 * * *

「信じるに決まってるだろ」
「はあ? なんでやねん」
「いや、だってさ……」

「エア恋人ぐらい、誰でも1人はいるだろ?」

「よっしゃ! トマトもーらい♪」
 テレビの中で、俺が操作する電気ネズミが回復した。
 調子に乗って、そのまま聡が操るゴリラを吹っ飛ばしにかかる。ネズミにボコられるゴリラ。リアルに考えるとシュールな画だ。
「オラオラオラオラァ!」
 時を止める不良高校生よろしく雄叫びを挙げながら、キーを連打する。
「オラァ!」
 最後にスマッシュを決めて、見事ゴリラは吹っ飛んだ。
「よっしゃあ! ……ん?」
 そこでようやく、聡がまったくゴリラを操作していなかったことに気づいた。
 聡は、目を見開いて俺を見ていた。 女の子に見つめられるならともかく、男にこんな風に見られたって気持ち悪いだけだ。
「どうした?」
「あ、いや……」
 聡は目を逸らした。「今さら驚くことちゃうか」とか言っている。何の話か、さっぱりわからん。
「もしかして、あれもエア彼女なんか? ほらあの……」
「沙織と鈴音と和香奈とエリザか? もち!」
 聡は引いていた。ドン引いていた。なんでだ?
「エア彼女と別れるってなんやねん……」
「んー? 具体的に言えば、設定資料集とか思い出の品とか捨てて、もうその子のことを思い浮かべないことだな」
「それは別れるんとちゃうやろ……」
「そうその通り。別れるどころか、その子の存在そのものを消す行為に等しい。あの時は、もう涙が止まらなかったなあ……」
 やべ。思い出しただけでも目が潤んできた。
 聡は、やれやれというように首を振っている。
「じゃあお前は、彼女のエア彼氏に嫉妬したんか?」
「……まあ、な」
 そう、俺は嫉妬した。醜く嫉妬した。
 コントローラを床に置く。……はずが、投げ捨てるような感じになってしまった。
 大きい音をたてる床。ため息が出る。
「自分でもわかってるよ。自分が心の狭い女々しい男だってことはな……」
「いや、俺が言いたいんはそういうんとちゃうけど……」
「俺なんかに気を遣うなよ」
「…………」
 それでも聡は何か言いたそうだったけど、最後には言うのをやめたみたいだった。
 どうにも、ゲームするような空気じゃなくなってしまった。俺はとりあえず、ゲームを片付けることにした。聡も一緒に片付け始める。
「……あにうえ」
「おう、那奈」
 いつの間にか、那奈が帰ってきていた。
「おかえり」
「……ただいま」
「び、びびったぁ」
 聡が大袈裟に驚いている。いや、大袈裟でもないか。那奈はほとんど音を立てないから、慣れない奴は声をかけられただけでも驚く。
「……こんにちは、聡さん」
「あ、こ、こんにちは」
 丁寧にお辞儀する那奈に、これまた丁寧なお辞儀を返す聡。こいつらといると、俺がすごい礼儀知らずな人間に思えてくる。そうでないことを実感させてくれる人は、俺の周りではホモ先輩だけだ。
「あ、そうや。那奈ちゃん」
 聡が那奈に呼び掛けた。
「……なに? 聡さん」
「なあ……、那奈ちゃんも、エア恋人とかおるんか?」
 緊張した面持ちの聡。そりゃあ異性に恋人の有無を聞くのは、相手が好きな人じゃなくても緊張するよな。
「……いない。恋人とか、いるわけない」
 その強い口調に、俺は少しだけ違和感を感じた。
 だがその違和感の正体までは掴めなかった。
「ああ、そうなんや。良かったあ。那奈ちゃんは普通なんやな。瑛太の妹やからてっきり」
「……エア友達なら、いるけど」
「やっぱ蛙の妹は蛙か……」
 地面を殴りつける聡。こら、人ん家のフローリングを殴るな。
 そんな聡を放置して、那奈がすすす、と俺のほうに歩み寄ってきた。
「なんだ? 那奈」
「……あめうえ」
「那奈。俺のことを呼ぶ時にその前後の文章と合体して省略するのは構わないが、それだと意味がわからない上にまるで俺が雨に濡れてびしょびしょになってるみたいに聞こえる。略さずに言え」
「うん、わかった。あにうえ」
「なんだ?」
「……あめ、降ってる」
「早く言え!」
 俺は洗濯物を取り込むべく、ベランダへと飛び出した。

 洗濯物を取り込んでる間に聡は帰った。天気予報によると雨足はどんどん激しくなるらしいから、賢明な判断だろう。
 俺は取り込んだ洗濯物を、室内に干し直していた。家事が嫌いな那奈も、今だけは手伝ってくれている。
「あーあ、せっかく乾きかけだったのになあ」
 ぼやきながらチラッと那奈のほうを見ると、那奈は俺のパンツをまじまじと観察していた。普段見られない物とは言え、そんなに気になるのか?
「那奈ぁ」
 呼び掛けると、那奈は俺のパンツをパッと手放し、なに食わぬ顔で他の洗濯物を干し始めた。
「……なに? あにうえ」
「なんでお前は、自分の下着だけ自分で洗うんだ?」
 そう聞くと、那奈は俺にしかわからない程度に顔を赤くした。
 赤い顔のままで、那奈は答える。
「……下着は手洗いしないと、すぐ傷む」
「でもさ、それって全部じゃないだろ? 確かレースがついてない奴とかは洗濯機でもいけるはずだ」
「……なぜそこまで詳しい」
「普通だろ?」
「……ぜったい、普通じゃない」
「いやそれより、なんでだよ」
「だって……」
 しばらくモジモジした後、那奈は囁くような声で言った。
「……はずかしい」
「恥ずかしい? 兄妹なのに?」
「きたないし……」
「女の下着が汚れやすいのは知ってるよ」
「だからって……」
「まあ、自分のことを自分でしようとするのはいいことだけどな」
 そう。別にイチャモンをつけようとか、そういうんじゃないんだ。妹の下着を手洗いしたいとか、そんな変態的欲求があるわけないし。
 ただ、純粋に気になったんだ。家事をしたがらない妹が、どうして自分の下着に限って積極的に洗おうとするのか。
 恥ずかしい、か。那奈も年頃ってことだな。
「恥ずかしい、か。那奈も年頃ってことだな」
「……それ、心で思うだけにしてほしかった」
 年頃の妹は、無表情のまま恥ずかしがるという器用なことをした。そんな風にされると、もっとからかってやりたくなる。
「ああ、これが子離れか。悲しいなあ」
「……あにうえ、私のお父さん?」
「おむつを替えてあげていたあの頃が懐かしい」
「それセクハラ……」
「昔は『お兄ちゃんと結婚する!』とか言ってくれてたのに」
「…………」
 あれ? ツッコミがなかった。呆れて言葉も出ないって奴か? そんなヤバいこと言ったか?
「那奈?」
「…………」
 那奈は、壁を見ていた。手をぶらんと下に垂らして、まるで糸が切れた操り人形みたいだった。
「那奈?」
 もう一度呼びかける。那奈は返事をしない。
 そこで俺はようやく気づいた。那奈の真剣な顔に。
 那奈は何か悩んでいるんだ。その悩みを、さっきの俺の一言が呼び覚ましたんだ。
 悩んでる? 何をだ?
「……あにうえ」
「…………なんだ?」
 俺は洗濯物を干す手を止めた。那奈もとっくに止めている。あまり広くない部屋で2人。聞こえてくるのは、雨音だけだった。
「……どうして、あめは降るの?」
「どうしてって……」
 こういう質問は苦手だ。
 化学的な理屈とかはわかるけど、那奈がそんな答えを望んでいないこともわかる。だからと言って、俺には気の利いた言葉なんて言えない。
「えっと……、女の子の服を透けさせる為?」
 結局、こんなことしか言えない。……いや、言っといてなんだが、この状況でこの答えはないだろう。真面目な空気がぶち壊しだ。
「……へにうえ」
「…………」
 確か、変態あにうえの略だったか。
「……へにうえは、私が雨に濡れて透けてたら、萌える?」
「…………」
 どう答えたらいいんだ? いつもみたいにふざけた答えがいいのか? それとも、真面目に話したほうがいいのか?
 俺が悩んでいると、那奈がベランダの扉を開けた。何をするのかと思って見ていたら、那奈はスリッパも履かずに素足でベランダに足を踏み出した。
「お、おい那奈っ、濡れるって!」
 雨は容赦なく那奈の身体に降り注ぐ。たちまち那奈はずぶ濡れになる。
 制服の白いブラウスが透けて肌色に染まり、胸部には水色のブラが露になった。でも萌えない。萌える訳がない。濡れそぼった女の子なんか、2次元だけでいいんだ。3次元でそんなの、可哀想なだけだ。
「おい! 戻ってこい!」
 那奈は戻ってこない。
「……あにうえ」

「私、かわいく、ない?」

「……は?」
 一瞬、那奈がなぜそんなことを聞いてくるのかわからなかった。
 那奈は普段、自分のことを可愛いとか言ったりしない。その那奈がこんなことを聞いてくる理由。
 考えて、思い至る。同時に、頭に血が昇っていくのがわかった。
「なんだそれ! 可愛いに決まってるだろ! 誰かに言われたのか!?」
 那奈が頷いた。
 腹が立った。
 身勝手だとわかっていた。こんなので腹を立てるのは、シスコンの見苦しい男だってことはわかっていた。
 だけど、それがなんだ。
「誰だ!? そんなこと言った奴は!」
 聞いてどうするつもりなのか、自分でもわからない。でも聞いた。聞かずにはいられなかった。
「……私を、振った人」
「……! お、お前、プロポーズしたのか」
 那奈が首を振る。
「……違う。私はあんな人、好きじゃないし、好きじゃなかった」
「好きでもない奴に振られた……?」
 どういうことだ?
「……勘違いで、好きって思われて、でもそれは私のせいで……、でも、まさか、あんな、みんなの、前で……」
「……! ……ッ!」
 断片的な言葉だったけど、わかった。
 勘違い野郎が、大事な妹の心に傷をつけた。
 わかったら、居ても立ってもいられなかった。
「――那奈!」
「……!」
 俺はベランダに飛び出して、那奈のことを抱きしめた。
 小さい、驚くほど小さい身体が、すっかり冷えきっていた。俺はそれを暖めるように、強く、強く抱きしめた。
「そんなの、気にすんな。そんな奴にどうこう言われたって、お前は変わらない」
「……私は、不気味だって」
「だから気にすんな! 世界中の人間がお前を嫌っても、お前はお前の一番大事な人に好きでいて貰えればいいんだよ! 違うか!?」
「……あにうえ」
 那奈の震える指先が、俺の服を握りしめた。
 頼られている。それがわかった。指先から伝わってきた。
 だったら、守ってやらないと。
「もし今日のことでいじめられたら、俺に言え。そいつらを殴ってでも、お前のこと守ってやるから」
「……だめ。あにうえが捕まる」
「心配すんな。捕まらないように影でこっそり殴る」
「……いんけん。……台無し」
 那奈が薄く微笑んだ。
 それは、久しぶりの笑顔だった。
 この笑顔を守りたい。心の底からそう思った。

 * * *

「さあ、一緒に風呂に入るか」
「……なぜそうなる」
「①お前は濡れている。
 ②俺も濡れている。
 ③1人ずつ風呂に入ると、後から入ったほうが風邪をひく。
 ④一緒に入れば、どちらも風邪をひかない。OK?」
「……風邪をひけ」
 妹様は、さっさとお風呂に行ってしまわれた。
 1人で居間に取り残された俺は、濡れた服を脱いで、タオルで身体を拭く。
「……元気になって、良かったな……」
 もしかしたら、空元気かも知れない。
 ――それでも、空元気が出せるだけいい。
 明日学校に行ったら、また悩むのかも知れない。
 ――それでも、今前向きになれるだけいい。
「自分のことなら、そう考えられたんだけどな」
 俺はタオルを首にかけて、携帯を取り出した。うん、濡れてるけど壊れてない。さすがガラケー。
「えーっと、奏、奏っと」
 ぷ、ぷ、ぷ、ぷ、ぷるるるる、ぷるるるる……

 * * *

「ひゃんっ!」
 パンツのポケットに入れていた携帯が、振動した。
 見てみると、瑛太くんからの着信だった。
「なんて声出すのよあんたは……」
 近くでテレビを見ていたお母さんは、呆れ顔だった。
「だって、こしょばかったんだもん」
「奏、あんた外でもそんな声出してないでしょうね」
「何度かあったよ?」
「あんたね……」
「1回は瑛太くんの前であったんだけど、それから瑛太くんったら、私が近くにいるのに電話かけてくるようになったんだよ。ほんとにいじわるだよね」
「それは本当にただの意地悪なの?」
「? それ以外にあるの?」
「……わからないならいいわ。早く電話に出なさい」
「あ、うん」
 頷いて、通話ボタンを押す。
「もしもし、お兄ちゃん?」
『おう奏。今いけるか?』
「うん、大丈夫だよ。なに? お兄ちゃん」
『ちょっと頼みがあるんだけどさ』
「頼み?」
『ああ。俺の妹のために、一肌脱いでほしいんだ』
 キリッとかいう音が聞こえてきそうな、カッコいい言い方だった。でも……。
「お兄ちゃんが言うと、その言葉もなんだかエッチに聞こえるね」
『真面目な話なんだが……』
「ああごめんごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど、つい、ね」
 なんか瑛太くんと話す時は、ふざけたくなるんだよね。
『まあ、いいけどな。それより、妹の話なんだけど……』
「うん、那奈ちゃんが、どうかしたの?」
『…………』
 私がそう聞くと、瑛太くんは急に押し黙った。
「お兄ちゃん? どうしたの?」
 私がもう1回聞くと、ぼそっと瑛太くんが何かを言った。あんまり小さい声だったから、最初はなんて言ったのかわからなかった。
 その声を頭の中で反芻して、ようやくなんて言ったのかがわかった。
 ――あいつ、泣いてたんだ。
 瑛太くんは、そう言っていた。
「泣いてた? 那奈ちゃんが?」
 ちょっと信じられなかった。確かに那奈ちゃんは弱いところがあるけど、まさか瑛太くんの前で泣いちゃうなんて。
「何があったの?」
『……俺も詳しくは聞いてないんだけど』
 そう前置きしてから、瑛大くんは今日のことを詳しく話してくれた。

「なにそれ、可哀想……」
 それは確かに、泣くかもしれない。
 なんかその男の子、デリカシーがないなあ。高校生でそれって、問題があるんじゃないかな。
『とりあえず今は、慰めて、立ち直ってくれた。でも、それだけじゃ俺は安心できないんだ。だからお前にも手伝ってほしくて』
「安心できないって……。でも、心の傷って周りからどうにかするのは限界があるじゃない? お兄ちゃんがかけてあげた以上の言葉なんて、私にはかけてあげられないよ……」
 半分、嘘だった。手伝えない理由は、実はもう1つあった。
 怖かった。私は那奈ちゃんに嫌われてる気がするから、だから私が下手なこと言って、余計に傷口を広げてしまうのが怖かった。
『心のほうじゃないんだ。俺が気にしてるのは、学校のほうなんだよ』
「学校……?」
『クラスメイトの前でフラれたんだ。もしかしたら、面白半分に那奈のことをからかうヤツが出てくるかもしれないだろ? それが冗談で済めばいいけど……』
「もしもいじめになったら……ってことだね。でも、それこそいじめになっちゃったら私たちにはどうしようもないよ」
『だから、いじめになる前の予防策だよ。本当なら俺が行きたいんだけど、俺じゃ無理だから奏に頼みたいんだ』
「え? なんの話? どこに行くの?」
『那奈の高校に、行ってきてほしいんだ』
 高校に、行く……。
『高校に行って、那奈がいじめられそうになってないか確認して、俺に伝えてほしいんだ。あとついでに、那奈がフラれた原因とかも調べてほしい』
「待ってお兄ちゃん。私、お兄ちゃんと同じ24才なんだけど……」
『ああ知ってるよ。それがどうした?』
「24で高校に潜入って、ちょっと無理があるんじゃ……」
 制服を着た自分を想像してみる。
 ……うん、無理だ。いくら私の胸がなくても、無理だ。あり得ない。
『ああ、そうか。その手があったか』
 胸がないこと+年を取ったことを自覚したせいで軽く落ち込み気味の私とは対照的に、電話の向こうからは明るい声が聞こえてきた。
『潜入っていう手があったな。そのほうが、調べやすいか』
「え……?」
『いやあ、最初は普通に卒業生として学校に入ってもらおうと思ってたんだよ。ほら、俺と違ってお前はあの学校の卒業生だからさ』
「…………!」
 やっちゃった。
 とんだ勘違い。潜入なんて言わなかったら良かった。
『制服はまだ残してるよな? もしなかったら、那奈のを持ってくぞ』
「や、あの、お兄ちゃん……」
『この埋め合わせに、次のデートは俺が奢るから。頼むぞ、俺の妹のために』
「あ、うん。私も、那奈ちゃんのことは心配だけど……」
『だけど、なんだ?』
「う、うん」
 とりあえず落ち着こう。
 私だって、那奈ちゃんのことが心配だ。
 那奈ちゃんが私のことを嫌いだとしても、私は那奈ちゃんのこと好きだし、大事に思ってる。その那奈ちゃんのためなら、少しぐらいの無茶はする。高校に潜入だって……まあ、ちょっと嫌だけど、やってみせる。
 だからこれから言うことは、自分が嫌だから言うんじゃないんだ。
 自分にそう言い聞かせてから、私は口を開いた。
「那奈ちゃんはきっと、お兄ちゃんに大切に思ってもらえれば、それだけでなんでも乗り越えられるよ」
『は……?』
 案の定、瑛太くんには意味がわからないみたいだった。でも私は、とにかく全部言ってしまうことにした。
「前に、那奈ちゃんはお兄ちゃんのこと好きかもしれないって話をしたでしょ? あのあと考えたけど、やっぱりそうなんだと思う。那奈ちゃんは、お兄ちゃんのこと好きだよ」
『ちょっと待て。お前なに言ってんだよ』
「那奈ちゃんは確かにあんまり強い子じゃないけど、それはお兄ちゃんに依存してるからだよ。そのくせ自信がないから、不安定なの。お兄ちゃんがその気持ちに応えてあげれば、きっと那奈ちゃんはすごく強くなる」
『いや、そんなわけないだろ』
「ううん、そんなわけあるの。恋する女の子は、強いんだよ」
『…………』
「だけど……」
 そこから先の言葉は、本当は言うつもりはなかった。
 だけど気がついたら、勝手に口をついて出ていた。
「だけど私は、お兄ちゃんに那奈ちゃんのこと大切にしてほしくない」
『え……?』
 瑛大くんが、呆気に取られたような声を出す。
「私はいつだって、お兄ちゃんの一番でいたいの。だから那奈ちゃんの好きって気持ちにお兄ちゃんが応えようとするんだったら、私は全力でそれを邪魔する」
 嫌な女だって、自分でも思う。でもこの口は、止められない。
「お兄ちゃんを騙してでも、那奈ちゃんを騙してでも、どんな手を使っても邪魔をするよ」
『お前にそんなこと、できないだろ……』
「できるよ。さっきも言ったじゃない。恋する女の子は強いって」
『……そっか』
「…………」
 内心、どきどきだった。
 すごいことを、瑛大くんに言っちゃった。これで嫌われたらどうしよう。邪魔をする前に嫌われちゃったら、何もかもおしまいだ。
 そんな思いが、頭の中を駆けずり回っていた。
『……ふっ』
 そんな私の不安を煽り立てるように、瑛大くんが小さく笑う声が聞こえた。
「あ、あの、お兄ちゃ……」
『ありがとな、奏』
「え? な、なにが?」
 なんでお礼を言われたのか、全然わからない。
 だけど瑛大くんは鼻で笑うばっかりで、私の疑問には答えてくれなかった。
『でも、何度も言うけど、那奈が俺を男として好きなんてこと、絶対にないよ』
「……うん。それならそれで、いいの。でも、心の片隅には留めておいて。じゃないと、お兄ちゃんは那奈ちゃんのことを傷つけちゃうことになるから」
『わかった。ありがとな。……じゃ、切るよ。高校潜入の件もよろしく』
 そう言うと、瑛大くんは電話を切った。
 通話終了の画面を見ながら、私はハア、とため息をつく。
「…………やっぱり、しなきゃダメだよね……」
 気が進まないなあ。でも那奈ちゃんのためだし、やるしかないか。
 そういえば、制服ってどこにしまったんだっけ?
 そう思って私が立ち上がろうとしたところで……
「ねえ、奏?」
 お母さんに話しかけられて、私はハッと気がついた。
「あ、……な、なに? お母さん」
 しまった。学校に潜入とか、思いっきりお母さんの前で話してた。
 止められたらどうしよう。なんて言い訳したらいいんだろう。ああ、なんでこんなドジを……。瑛大くん、ごめんね。本当にごめんね……。
「さっきの、瑛太さんからの電話よね?」
「そ、そうだけど……」
「…………」
 言うかやめるか悩んでる様子のお母さん。私の背中を冷や汗が伝う。
「…………私の勘違いかもしれないけど……」

「奏と瑛太さんって、確か喧嘩してなかった?」

「………………………………あ」

 * * *

「ふぅ……」
 通話の切れた携帯を、枕元に置く。
 「…………那奈が俺のことを、ねえ……」
 布団の上に寝そべって、ひとりごちた。
「…………」
 だんだら模様の天井を見ながら、最近の妹の言動を思い返す。

 ――私が、いるのに……?

 ――へにうえは、私が雨に濡れて透けてたら、萌える?

「…………まさか、な」
 そんなことは、あり得ない。そんなのは、2次元の世界での話だ。
 いや、でも奏があそこまで言ってる訳だし、別にあり得なくはないんじゃないか? いやいや、でも、妹に限ってそんな……。
「ああもうっ! だめだだめだ!」
 何もしてないと変なことばかり考えてしまう。こういう時は、ゲームでもして頭を空っぽにするのが一番だ。
 俺は布団から起き上がった。
「……あにうえ、お風呂あいた」
 ちょうどその時、脱衣場の扉が開いて那奈が出てきた。キャミソールに短パン。普段は病人のように白い手足が、今はほんのりサクラ色に染まっている。
「お、おう那奈。早かったな」
 さっきまで変なことを考えていたせいか、妹を直視しづらい。
 だが顔を背けたりしたら、きっと余計変に思われる。俺は意識して、妹のほうを見るようにした。
「ん……?」
 那奈は、口に手を当てて驚いた顔をしていた。いや、顔は無表情だけど、その仕種は驚いた時とか、失敗した時の仕種だった。
「ど、どうしたんだ那奈」
 なんだ? 何かマズイ物でも見たのか。
 慌てて自分の周りを見回すが、特に何も変わったものはない。
「……まちがえた」
「何をだ?」
「ふにうえ」
「柔らかそうで癒されそうである意味魅力的に聞こえる呼び方だが、俺のイメージとまったく合ってない上になんか弱々しく聞こえるからその呼び方はやめろ。略さずに言え」
「わかった。……お風呂あいた、あにうえ」
「それはさっき聞いた……って、間違えたってそれのことか?」
 那奈がこくんと頷く。
 俺の口から、はあ、とため息がもれる。
「あのな那奈。別に略して呼ばないといけないという決まりはないんだから……」
「なが一個おおい」
「うるさい。お前なんかアノナナナだ」
「アノまでくっついてきた……。おとく……」
「何がだ」
「さあ?」
「…………」
 話してると感じさせられる、この脱力感。
 ああ、俺の妹だ……。
 これぞいつも通りの、俺の妹だ。
「……あにうえ、お風呂、はいってきたら?」
「ああ、そうさせてもらうよ……」
 脱力感と共に、俺は風呂に向かった。

 俺が風呂から上がると、那奈はもうベッドの上で眠っていた。
 服が着崩れて、小さいヘソが丸出しになっている、俺の可愛い妹。
「ったく、これじゃ先に風呂入らせた意味がないだろ」
 愚痴りながら、掛け布団をかけてやる。
 と、それで目が覚めたのか、那奈がうっすらと目を開けた。
「……あにうえ」
「あ、ワリ。起こしたか?」
 ふるふると首を振る。その目はほとんど開いてなくて、眠そうだ。
「眠いなら無理すんな。俺も寝るから」
 そう言って自分のベッドのほうへ行こうとすると、服の裾を引っ張られた。
「那奈……?」
「あにうえ、いっしょに、ねて……」
 妹はこんなだけど、一応高校生だ。
 高校生にもなって一緒に寝てほしいなんて、ここまでいくと甘えん坊じゃ済まされない。最早ブラコンと呼ばれるレベルだ。
「……ああ、いいぞ」
 だけどそれをOKしてしまう俺も、きっとシスコンなんだろう。
 ――今日だけだからな。
 そう思いながら、俺は那奈の布団に入る。
「あにうえ……」
 那奈は俺の服を掴むと、目を閉じたまま、嬉しそうに頬を緩ませた。起きてる時にはあまり見られないあどけない顔に、心が安らぐ。
「あにうえ……」
「なんだ?」
 俺は油断していた。だから、次に来る言葉を予想できなかった。
 いや、油断してなかったとしても、予想できたとは思えないが……。
 那奈は、言った。

「すき……」

「…………!」
 心臓が止まるかと思った。
「那奈……、お前……」
 普通に考えれば、兄として好き、という意味だ。だけど今の俺には、とてもそうは思えなかった。

 ――那奈ちゃんは、お兄ちゃんのこと好きだよ。

 そんな、まさか……、いや、でも……。
「あにうえは……?」
 俺? 俺は……、
「す、好きだ。妹として」
 逃げた。
 ヘタレと言われてもいい。とにかく俺は、これに答えることができない。だって、本当のことを言ってしまったら俺たちは……
「……違う」
 那奈が目を開いた。
「あにうえ……ううん。瑛太、さん……」
 頭を殴られたような気分だった。
「瑛太、さんは、私のこと、好き……?」
 もう、言い逃れはできない。
 瑛太さんという呼び方一つに、全ての意味が込められていた。
 俺は……、俺は……、

「……………………ごめん、無理だ……」

「…………」
「俺、無理だ。だって那奈のこと、好きだけど……、妹としか見れないし……。それにやっぱ、こんなのあり得ないっていうか……」
「………………そう」
「ごめん。本当にごめん。那奈、俺……」
「いい」
「……那奈?」
 那奈は、笑っていた。
 寝ている時にしか見せないはずの笑顔を、俺に向けていた。
「……ただの、冗談だから」
「え……」
「びっくりした?」
「…………」
 冗談?
 本当に、冗談なのか?
 でも、さっきの那奈は、冗談を言っている顔じゃなかった。ずっと一緒に過ごしてきた俺だからこそわかる。あれは、本気の顔だった。
「……私、もう、寝る」
「あ、ああ」
「おやすみ……あにうえ……」
 目を閉じた那奈は、しばらくすると安らかな寝息をたて始めた。
 気持ち良さそうな寝顔。いつもなら、その寝顔を見ているだけでこっちも安らいでくるのに、今だけは、逆に心がざわついた。
 その日俺は、なかなか眠りにつくことができなかった。

 * * *

 あにうえが完全に眠った頃を見計らって、私は目を開けた。
 隣で眠る、あにうえの寝顔を見る。
「あにうえ……」
 いつもならその顔を見ているだけで胸がどきどきするのに、今日だけは、妙に冷めた自分がいた。
 布団から出る。
 寝巻き姿のまま、サンダルを履いて家を出た。外はまだ、しとしとと雨が降っていた。その中を傘も差さずに、身体をずぶ濡れにして歩く。
 夜道を歩いていると、ふと、月を見たいと思った。それで空を見上げてみたけれど、雲に覆われた空では月が見えるはずがなかった。
 私は空を見るのをやめた。どこに向かうでもなく、ただ歩いた。

 気がついたら、そこは駅だった。昼は賑わうその場所が、今は無人で、別の場所みたいに見えた。
 私は何も考えずに、無人の改札口を通った。
 電気のついてない通路を歩く。何度か壁にぶつかりながら、何度も階段につまづきながら、真っ暗な道を進む。
 暗闇の中に薄い明かりを見つけた。私は、そこを目指して歩いた。
 辿り着いたそこは、月明かりに照らされた電車乗り場だった。不思議だった。ここだけ、なぜか空が晴れていたから。
 空にぽっかりと浮かぶ月が、とても綺麗だった。
「こんばんは。今日は月が綺麗ですね」
 突然、後ろから声をかけられて、私は身体が竦み上がった。
 恐る恐る振り返ると、そこには見知った人がいた。
「にゃー子ちゃん……?」
 クラスメイトの、頭に障害のある女の子。その子がなぜか、制服姿で私の目の前に立っていた。
「にゃー子ちゃん、ですか……。貴女には、私がそう見えるんですね」
「……?」
 でも、様子がおかしい。
 にゃー子ちゃんは障害のせいでろくに喋れないはずなのに、このにゃー子ちゃんは流暢に言葉を操っていた。
「貴女の身体、濡れていますね。そのままでは風邪をひいてしまいます」
 にゃー子ちゃんが、私に向かって手を翳した。その手が淡く光を放ったかと思うと、その光が私の身体を包んだ。
 しばらくして光が収まったころには、私の服はすっかり乾いていた。
「これで、落ち着いて話ができますね」
「…………あなた、誰?」
 にゃー子ちゃんとは思えなかった。人間とも思えなかった。
 それなのに、私は少しも怖いとは思わなかった。幻想的な空気に、感覚が麻痺していたのかもしれない。
「私は……そうですね」
 しばらく迷ったような素振りを見せたあと、にゃー子ちゃんの姿をした何かは口を開いた。
「神、とでも言っておきましょうか」
「神様……?」
「いえいえ、様付けされるほどの者ではありません。ただ、この世界を見ているだけ。神の視点で見ているだけの存在ですから」
「神の視点……? 見てるだけ……?」
 急な話に、頭がついていかない。
「そうです。ただ、稀にこうして人に干渉することもあります。その人が私を必要としている時に、必要としているだけの力を持って」
 自称神様は、ゆったりと私の前まで歩いてくる。
「つまり、私が顕現する時に持つ力は、私を呼び出した人の願いによって決まります。とある女性は、話し相手を欲しただけだったから、私には話す力しか与えられなかった。とある少女は、そもそも人の言葉を求めていなかったから、私は猫の姿になった。そして貴女は……」
 神様が、私の顔にそっと触れる。
 私は、まるで金縛りにでも遭ったかのように身動きできないでいた。
「……私の差し出す手を求めている。だからこうして、触れ合うこともできる」
「……あなた、いったい……」
「だから、神ですよ。……しかし、どうでしょう。何度も神様神様と呼ばれるのは、少し居心地が悪いですね。それでは、私のことはとりあえず、にゃー子と呼んでください。借り物の名前ですが、きっとあの子も許してくれるでしょう」
 そう言って、神様は微笑んだ。
「もう一度、言いましょう。私は、貴女を助ける為に現れたのです。だからどうか、貴女の悩みを話してください」
「私の……悩み……」
 普通なら、話さないと思う。こんな訳のわからない場所で、神様を名乗る怪しいモノに、悩み相談なんて。
「聞いて、くれる……?」
「はい。その為に私はいるのですから」
 でも私は、普通じゃなかった。それに何より、現実離れしたこの状況こそが、最高の救いの場になると思えた。
 きっと私は、現実の世界では救われない存在だから。
「……あにうえが、私のこと、女として見れないって。……兄妹で恋愛なんて、あり得ないって」
「そうですか」
「あなたも、そう思う?」
 これが、私にとって一番の関心事だった。
 果たして神様は、私の恋を応援してくれるのかどうか。
 神様が応援してくれないのなら、きっとどこへ行っても私の味方はいない。
「……やっぱり兄妹で恋愛は、できない?」
「そうですね。良いことではないと思います」
「…………っ」
 ああ、やっぱりか。
 神様なんて言って期待させて、結局はおんなじなんだ。
 私の救いの場なんて、どこにもないんだ。
 そんなこと、わかってたはずなのに……。
 俯く私に、神様は言った。
「しかし、そのことはそれほど重要なことではないでしょう」
「え?」
 私は顔を上げた。
 重要じゃない? どうして?
「この世界が貴女を否定しても、貴女がその人を好きなことには変わりありません」
「あ……」
「それとも貴女は、自分が正しいということが証明されればそれで救われるのですか? 違いますね? 貴女の悩みは、好きな人と結ばれないこと。その悩みが解消されれば、例え世界が貴女を認めなくても、貴女は救われる」
「救って……くれる……?」
「はい」
 神様が、にっこりと微笑んだ。
 こんなに安心できる笑顔を、私は初めて見た。
 悩みを全て引き受けてくれた。それだけで、私は救われた気分になった。
 だけど神様はすぐにその笑顔を収めて、真剣な表情になった。
「しかしそれは、貴女の望まない形での救済となるでしょう」
「望まない形……?」
「そうです。ひょっとすると、逆に貴女を絶望の淵へと追いやることになるかもしれません」
 神様が、私に両手を向ける。その手がさっきと同じ淡い光を放っていた。
「それでも、私は信じています。貴女が現実に屈することなく、立ち直ってくれることを」
 何を言って……、え、光が……強く……。
 眩しい……! 目が、見えな――

 * * *

「……う?」
 気がつくと、私は公園のベンチの上に横になっていた。
 さっきまでは夜だったのに、今は昼間になっている。雨も上がって、太陽の日射しが眩しい。
「私…………?」
 自問してみても、答えは出ない。とにかく外で寝てるのは恥ずかしいから、立ち上がって歩くことにした。
 この公園は、小さい頃によく遊んだ公園だった。斜面の上にあって見晴らしが良いから、高校生になってからもたまに来たりしてた。
 私はいつもの習慣で、柵の前まで歩いた。ここから見える街並みが一番綺麗で、だから私は、この場所がお気に入りだった。
 景色を見ながら、考える。どうして自分はここにいるのか。どうやってここまで来たのか。
 考えて思い至ったのは、あの神様の仕業じゃないか、ということだった。神様のあの光のせいで、ここに飛ばされたんじゃないかって思った。
 だとしたら、今のこの状況が神様の言っていた『救い』のはず。でも今のところ、全然救われた感じはしない。これから、私が救われるようなことが何か起こるんだろうか……。
 そんなことを考えていると、柵の向こう側、斜面の下で、草の擦れる音がした。虫が動いたにしては大きい音だし、風も吹いてない。
 気になって下を見ると、そこには人がいた。
「や、やあ……」
「……あにうえ」
 あにうえだった。草むらの中に隠れるようにして、こっちを見上げている。ぎこちない笑顔がなんだか後ろめたそうだ。
「あにうえ、何して……」
 そこで私は気づいた。あにうえはこっちを見上げている。見上げて……?
「…………」
 自分の身体を目で見て確認する。さっきまで穿いていたショートパンツはなくなって、代わりにお出かけ用のミニスカートを穿いていた。
 ミニスカート……。見上げて……。
 もう一度あにうえを見る。
「ははは……あー、いや。その……」
 後ろめたそうな顔。
「……あにうえ……まさか」
 その時、私がいる丘の上を爽やかな風が駆け抜けた。私のスカートがゆっくりと捲れあが……

「ぎゃああああああ!!」

 スカートを抑えて柵から飛び退く。
 見られた。ぜったい見られた。
 だって風が吹いた瞬間あにうえちょびっと笑ってたし!
 最悪だ……。苦手な洗濯物を自分でやってまで見られないようにしてたのに。それをまさかあにうえのほうから覗いてくるなんて……。
「ぐすんっ……、あにうえの…………あにうえのばかー!」
 普段なら出さないような大声をあげながら、地面の砂をやたらめったら放り投げた。柵の向こうにいる、あにうえ目掛けて。
「すみませんでしたー!!」
 だけどそのあにうえの声が反対方向から聞こえてきて、私は思わず顔を上げた。
 あにうえが、目の前にいた。さっきの一瞬で、ここまで上がってきたってこと? 結構な斜面なのに?
「勝手にぱんつ見てすみませんでしたー!!」
 や、そんなことより、なんかこの人土下座してすごいこと叫んでる……。
 これが自分の肉親だと思うと、なんか恥ずかしくなってくる。
「……あにうえ、もういいから顔あげて」
「『あにうえ』?」
 あにうえが顔を上げた。その表情は、怪訝そうな表情だった。
「『あにうえ』……?」
 あぐらを組んで首を捻りだした。どうもここが地面の上ってことを、すっかり忘れてるみたい。
「あにうえ。そんなとこ座ってたら、服が汚れる。立って」
「『あにうえ』……」
 あにうえはまだ首を捻ってたけど、とりあえず立ち上がってくれた。
 私がズボンの埃を払ってあげてる間も、あにうえは首を捻りっぱなしだった。
「……これで、いい」
「…………」
 あにうえは、首を捻って私を凝視している。
「……なに? あにうえ」
 さすがに気になった。ずっと首を捻ってるから。寝違えたとか?
「いや、その『あにうえ』っていうの……」
「……? あにうえが、どうかした?」
「俺のこと……だよね?」
 何を言ってるんだろう、あにうえは。そんなの今さら聞くこと?
 それに話し方もなんか変だ。妙に他人行儀というか。
「……あにうえは、あにうえのことに決まってる」
「いや……、俺別に武士じゃないし、君の兄貴でもないし」
「…………」
 いよいよ頭がおかしくなったんだろうか。ちょっと心配になってきた。まさか……
「……まさか、変態をこじらせて?」
「変態を病気みたいに言ってんじゃねえ!」
 すかさずツッコミ。良かった、いつも通りのあにうえだ。
「なんなんだよチクショー……。聡はしょっちゅう変態変態言いやがるし、今度は見ず知らずの女の子まで……」
 ん? 見ず知らずの女の子?
「俺のどこが変態だってんだ!」
「……さっきぱんつ覗いてたのは誰?」
「俺です!」
「それでも変態ではないと?」
「ちょっと待ってくれ! 考えてもみるんだ! もし君が男だったとしよう。そして自分の恋人に対して裸になれと要求したのを冷たく拒否されて落ち込んでる時だと仮定するんだ! ムラムラな気分を抱えたまま家を追い出され、仕方なく街中を歩いてみれば辺りは真夏の炎天下のせいで薄着のおなごばかり! ほら見ろ、あの子の露出度の高さ! 肩だしヘソ出しでほとんど下着姿と変わらないぞ! 今度はあっちだ、汗で下着の線が透けててなんかエロい! ただでさえムラムラなのに、このままでは俺は無関係の女子に襲いかかって変質者の仲間入り! こうなったら仕方ない、できるだけ健全で神聖なる場所へ移動しようそうだ公園がいい! いくらムラムラな俺でも、小さい女の子を襲ったりはしないからと油断して来てみれば、そこにはミニスカでぱんつが見えそうな推定15才が!」
「私は17才……!」
「ギリギリ射程範囲内でしかもなんだあの美脚! この状況で見なかったら男じゃないつまり俺はっ! 変態じゃない男なんだああああああ!!」
「……じゅうぶん変態だと思う」
 しかも、開き直ってる辺りが始末に負えない。
 ……まあ、変態はいつも通りだからいいとして、問題は頭がおかしくなったことだ。妹の私を、まるで知らない人みたいに扱うのはどうしてだろう?
「それより、君はなんで俺のことを兄上って呼ぶんだ?」
 あ、先に聞かれた。
 うーん……、こういう時って、何て答えたらいいんだろう。
「ハ……! まさか君は、生き別れた俺の妹!?」
 あ、なんか勝手に話が進んだ。しかも妙なスイッチが入ってるっぽい。
「ああ、やっと逢えた……! 離れ離れだったこの5年間のどれほど辛かったことか! 逢いたかったよ、俺の大事な、えーっと……」
「……那奈」
「そうナナ! 俺の大事な妹、ナナよ! さあ、今日は5年分の時を共に過ごそう! 2人の時間を、取り戻そうじゃないか!」
「…………」
 これは……ナンパ? こんなのでついて行く人がいるんだろうか。
 いるとしたらそれは……。
「……うん」
 きっと、私ぐらいだと思う。
 妙にテンションが上がっているあにうえの後ろを、私は鼻歌を歌いながらついていった。

 * * *

 トイレに行きたくなって、目が覚めた。
 途中で、キッチンに置いてある電子レンジの時計を見たら、時間は1時10分だった。どうりで、眠い。
「ふあぁ……」
 あくびをしながらトイレに入って、用を足す。
「ふぅ……」
 水を流して、最後に手を洗ってから、トイレを出た。
 部屋に戻って布団に入る。半ばまで掛け布団を被ったところで、違和感を覚えた。
 何か、おかしい。
 俺は被りかけの掛け布団を跳ね飛ばして、那奈の布団のほうに向かった。デフォルメされたひよこの絵の掛け布団を、躊躇なく捲る。いつもならここで、「……へにうえ、何をする」と詰られるはずなのに、今日はそんなことはない。中で誰も寝ていないからだ。
 那奈が、いない。
 那奈が、どこにもいない。
「…………那奈……!」
 俺は家を出た。
 雨が降りしきる屋外へと飛び出す。誰もいない歩道を闇雲に走る。
 那奈が家にいない。つまり外に出た。この雨の中を、なんで……まさか……。
 那奈……! 那奈……! 那奈……!
 雨が目に入ってうっとうしい。服が濡れて重い。でもそんなこと、どうでもいい。
 那奈……! 那奈……! 那奈……!
「那奈ァー!!」

 ――あにうえ……すき……。
 ――あにうえは……?

 ――ごめん、無理だ。

 まさか那奈、そんなことで、まさか、まさか……。
 まさかの次が出ない。いや、考えたくないんだ。心の中であっても、言葉にしてしまえばそれが本当になってしまいそうで。
 ――那奈が、自殺してしまいそうで。
「…………ッ!」
「自殺なんか……」
「させるかよ!」
「那奈!」
「那奈!」
「那奈ァーー!!」
 自分が何を叫んでるのかもよくわからない。冷静にならないとと思うけど、とてもそうはなれない。
 首を吊った那奈が瞼の裏にちらつく。それを必死に振り払いながら、俺は走り続けた。
 当てもなく、ただ走り続けた。

「ハア、ハア、ハア……」
 那奈が見つからないまま、時間だけが過ぎた。
 探し始めてからどれくらい経ったのか、わからない。2時間ぐらい経ったような気もするし、30分ぐらいしか経っていないような気もする。
「那奈……」
 走り回るだけの体力は、もう使い果たした。
 あとになって車に乗ってきたら良かったと気づいたが、取りに帰る時間が惜しかった。
 途中で交番に寄った。いなかった。
 学校にも、近くのコンビニにも、那奈が小さい頃好きだった公園にも行った。那奈はいなかった。
 いったい、どこに行ったんだ……。
「那奈……」
 俺は藁にもすがる思いで、携帯を取り出した。取り出した時は、誰にかけようとしてるのかは自分でもわからなかった。
 携帯を持つと、勝手に指が動いた。選んだ連絡先は、奏だった。
『もしもし? 瑛太くん?』
「かな……で……」
 こんな時間なのに、奏はちゃんと電話に出てくれた。なぜだか、泣きそうになった。
『何かあったの?』
「奏、那奈が……那奈が……」
『那奈ちゃんが、どうかしたの?』
「……いなく、なった…………」
 俺は、泣いた。泣いてる場合じゃないのに、涙が止まらなかった。
 奏に宥められながらも、俺は那奈がいなくなった経緯を話した。
「……それで、俺、無理だって言っちゃったんだ。妹としか見られないって……。俺が、俺があんなこと言わなけりゃ……」
『瑛太くんは悪くないよ』
 奏が言った。
『瑛太くんは、そう言うべきだった。口先で受け入れたフリをしても、それは先伸ばしにしてるだけなんだから。冗談でごまかしたりしなかった分、瑛太くんは誠実だよ』
「だけど……」
『とにかく、今は那奈ちゃんを探そう。もう那奈ちゃんが行きそうなところは全部行ったんだよね?』
「あ、ああ」
『じゃあ後は、町中くまなく探すしかないね。瑛太くんがいるのは駅の近く? なら瑛太くんは、瑛太くんの家から山側を探して。私は海側を探すから』
 ああ、奏に電話をかけて良かった。
 1人でいくら走り回っても治まらなかった恐怖感が、奏の声を聞いてると治まってくる。
『じゃあ、また1時間経ったら電話するから』
 奏は最後にそう言って、電話を切った。
 俺は携帯を胸に当てて、握りしめた。
 大丈夫だ。奏も一緒に探してくれてる。きっと見つかる。
 そう、大丈夫だ。那奈に限って、自殺なんてする訳がない。あいつはそんなに弱くない。
「……とりあえず、車を取りに帰ろう」
 幾分冷静さを取り戻した俺は、無理に走るのをやめて、早歩きで家に帰ることにした。
「こんばんわ」
 その時、目の前に白いワンピースを着た女の子がいた。
「え……」
 いつからいたんだ? いや、いつからも何も、さっきからずっといたんだ。歩いてきたんでもなく、突然現れたんでもなく、いたんだから。それはわかる。
 じゃあ俺は、女の子が目の前にいるのに、それをまったく気にかけずに奏と電話してたのか? この雨の中で傘も差してない女の子を? それはない……と、思う。
 そうだ。俺は気づいてなかった。なのにこの子がずっとここにいたことを知っている?
 自分でも腑に落ちなかったけど、とにかくそう考えるしかなかった。
 それに今は、それどころじゃないんだ。
「そうだよ、おにいたま」
「え……」
 今、なんか天使の囁きが聞こえたような……。
「おにいたまは、早くななちゃんを助けないといけないんだよ」
 ヤバい。俺としたことが、義妹が好きすぎてついに耳がおかしくなったのか? さっきから魅惑のワードが聞こえてくるんだが。
「でもね、大丈夫だよ。ボクは、ななちゃんがどこにいるか、ちゃあんと知ってるんだから」
 えっへんと胸を張る女の子、推定11才。可愛い。可愛すぎるぞ。だいたい幼女で黒髪ロングでボクっ娘って無敵の組み合わせじゃないか。いくら最近の小説界のニーズが偏ってるからって、これは読者に媚びすぎだろう。ここにニートの設定が組み合わされば、冷房の効いた部屋で探偵とか始めそうな勢いだ。
 だけど今は、可愛さに溺れてる場合じゃない。
 そう、俺が今すべきことは……。
「にゃ? おにいたま?」
「…………」
 俺は女の子を抱えあげた。
「え、え、おにいたま、ちょ、ちょっとま……いぃぃやあぁぁ~~!!」
 小さい身体を自分の胸の中にしっかりと抱え込んで、雨の中を全力で走る。
 目的地は当然、俺の家だった。

 * * *

 なんでこんな状況になってるのかはわからないし、神様が何をしたのかもわからない。だいたいここが現実かどうかも疑わしいし、あにうえは変態だから下手をすると貞操の危機だ。
 だけどあにうえが私のことを女の子として扱ってくれてることがなんだか嬉しくて、私はついついあにうえについて来てしまった。
 そうして連れて来られたのは、お洒落な喫茶店だった。
「すみません。コーヒーと、オレンジジュース、1つずつ貰えますか?」
「コーヒーとオレンジジュースですね。かしこまりました」
「…………」
 店員に注文を伝えるあにうえを、じっと見つめる。
 正直、意外だった。あにうえがこんなお店を知ってるなんて。あにうえのことだから、もっと変態なところに連れて行かれると思ってたのに。もちろん、その時は二度と立ち直れないぐらい罵ってやるつもりだったけど。
「ん、なんだ?」
 私が見つめてることに、あにうえが気がついた。
 私は何も言わずに、見つめ続ける。
「おいおい、いくら俺がカッコいいからって、そんなに見つめないでくれよ」
「…………」
 見つめる。
「やだなあ。そんなに見つめなくても、今日1日はずっと一緒にいるんだぜ?」
「…………」
 見つめる。
「いや、はは……。そんなに俺の顔がいいのかい?」
「…………」
 まだ見つめる。
「まあ、減るもんじゃないから、別にいいんだけどさ……」
「…………」
 見つめる見つめる。
「えっと……、楽しい? こんな顔見てて?」
「…………」
「あー、いや、その……なんていうか……」
「…………」
「ごめん、やっぱ照れるから、こっち見るのやめてくれない?」
「…………」
「え、もしかしてアレ? 俺の顔になんか、ついてるとか?」
「…………」
「ついてないよな……」
「…………」
「わ、わかったわかった! にらめっこだな! よぉしやってやる! あっぷっぷ!」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………っ」
 あにうえが顔を逸らした。
「……ごめんなさい、俺の負けです。なんか見るのより、見られるのが辛くて……。お願いです。後生ですから、もう見るのやめてください、お願いします……」
「ご注文の品をお持ちしました」
 ウェイターさんが飲み物を持ってきてくれた。テーブルに頭を擦り付けてるあにうえを華麗に無視してる辺りがプロだと思う。
「……どうも」
 あにうえの代わりにお礼を言う。あにうえはウェイターさんが飲み物をテーブルに置く間も、「ブサイクでごめんなさい」とか「生まれてきてごめんなさい」とか、ひたすらに鬱モードだった。見つめただけでこれとか、なんかもうダメダメすぎて可愛く見えてくる。
 私は、ウェイターさんが置いてくれたオレンジジュースを飲んだ。
 口の中に広がる自然の甘さ。甘いのに、すっきりとした味わい。
「……おいしい」
 思わず声が漏れていた。それを聞いたあにうえが顔を上げる。私の顔を見て、言った。
「良かった……」
「…………?」
 何が良かったんだろう。少し気になったけど、小さい声だったし、あえて聞かないことにした。
「さて、このあとはどこに行く?」
 あにうえが私に尋ねる。どうも本気で、今日1日一緒にいるつもりみたいだ。
「……私は、あにうえと一緒ならどこでもいい」
「んー、その兄上っての、やめない?」
 少し驚いた。今までずっとあにうえって呼んできて、嫌そうな顔なんてしたことなかったのに。
 でもよく考えたら、当然かも知れない。今のあにうえにとって私は見ず知らずの女の子なんだから、あにうえなんて呼ばれたら嫌に決まってる。
「……じゃあ、なんて呼んだらいい?」
「そうだな、お兄ちゃん、なんてどうだ?」
「…………そっちか」
 あにうえを舐めてた。
 そう言えば、こないだ奏にお兄ちゃんって呼ばせて喜んでたっけ、このへにうえは。
「あれ? 嫌か? あにうえはいいのに?」
「……あにうえは、妥協点」
「は?」
 そう。あにうえっていう呼び方は、妥協した末の呼び方だった。
 私は、あにうえと兄妹なのが嫌だった。だって兄妹は結婚できないから。だから妹らしい呼び方をしたくなかった。
 でも名前で呼ぶのはなんだか意識しすぎてる気がした。それで思い付いた呼び方が、あにうえだった。
「じゃあさ、名前で呼んでくれよ。俺、瑛太って言うんだ」
「!!」
 ついさっきの布団の中でのことが頭に蘇った。
 そうだ、私、あにうえのことを「瑛太さん」なんて呼んで……。
 あの時は顔に出さないように努力したけど、内心は恥ずかしさでどうにかなりそうだった。
 それを今、この状況で、呼ばないといけない。
「どうだ?」
「あ、あ……、い、いです、よ……えい、瑛太、さん」
 恥ずかしい。顔が熱い。この熱さはきっと、夏のせいだけじゃない。
「さん付けなんていいよ。確かに俺は年上だろうけどさ。呼び捨てでいいから」
「え……呼び捨て……」
 口の中で呼んでみる。瑛太……。
 だめ。無理。絶対無理だ。
「……あ、じゃあ、瑛太、くん、で」
「瑛太くんかぁ~。ま、それならいいかな。よろしくな、那奈ちゃん」
「那奈ちゃん……」
 また顔が熱くなる。
 どうしよう。名前を呼ばれただけなのに、幸せすぎて身体が飛んでいっちゃいそうだ。
「よし、じゃ、行こっか」
 あにうえがコーヒーを一気に飲み干してから、立ち上がった。
「え……。ど、どこに?」
 私が尋ねると、あにうえはニッと笑った。
「それは、着いてみてからのお楽しみってヤツだよ」

 * * *

 電気の点いていない真っ暗な部屋の真ん中に、白いワンピースを着た少女が、長い黒髪を床に垂らして座っている。
 その少女は、不安そうに辺りを見回して震えていた。
「ぼ、ボクをどうするつもり? ボクはまだこどもだから、食べてもおいしくないよ? 食べるなら、もっとおっきくなってからのほうがいいよ?」
 彼女は神視点の持ち主だが、世界の事象に干渉するような能力はほとんど持ち合わせていないし、未来を予知できる訳でもない。彼女の異能は、特定の人物の特定の不安を取り除くことだけだ。
 ましてや、声をかけただけで瑛太に誘拐されるなどとは、予想できるはずもなかった。
 そんな彼女に、細長くて白い布のような物を持った男が近づいていく。瑛太だ。
「そ、そんな物持ってきて、いったいなにをするつもり……?」
 怯えている少女に瑛太は……
「脱げ」
「ひいぃ!?」
 有無を言わせぬ強い語調で言い放った。小さい少女が、更に縮こまる。
 少女のこの身体は、あくまでも仮の姿だ。少女の本体は実体を持たず、よって少女がここで何かをされたとしても、本体には全く影響がない。
 しかし、だからと言って恐怖を感じない訳ではない。
 瑛太の目には、怒りの色が宿っていた。
「な、なんでボク、怒られてるの……?」
「ごちゃごちゃ言ってないで、早く脱げ」
「うぅう……」
 少女は今にも泣き出しそうだった。それを目元で無理矢理抑え込んでいるような、そんな顔をしていた。
 生まれたての小鹿のようによろよろと立ち上がった少女が、震える手を自らのワンピースの裾へと伸ばした。白い布地を掴み、少しずつ捲り上げる。
「……ぐすっ」
 すぐに、2つ並んだ膝小僧が顔を覗かせた。少女が更に捲り上げると、次に細い太股が現れた。暗い部屋の中で光を放っているのかと思われるほど、それは白く滑らかだった。
「…………っ、……」
 少女はついに耐えきれなくなって、目を固くつぶった。一思いに全部脱いでしまおうと、手に力を込める。
 その時、地面を強く蹴る音がした。
 驚いた少女が目を開けると、目の前には凄まじい勢いで迫り来る瑛太の姿があった。
「きゃあああああああ!!」
 少女は咄嗟に逃げようとしたが、間に合わない。
 瑛太の手が少女の手を掴み……
「――え?」
 下に押し下げ、少女の脚を隠した。
「え? ……え?」
 不思議そうな顔をする少女を、瑛太は叱咤した。
「バカか! 女の子が見ず知らずの男の前で脱いでんじゃねえ!」
「…………え?」
 呆気に取られた少女は、固まったまま瞬きしかできないでいた。
「あそこが脱衣場だから、そこで脱げよ。――だいたいなあ、何があったか知らねえけど、女の子が夜中にあんなとこ立ってるもんじゃねえぞ。もし変な男にでも襲われたらどうすんだよ」
 ぐちぐちと苛立たしそうに言い募る瑛太。少女が立ったまま動こうとしないのを見ると、また声を張り上げた。
「おい! 早くしろ! 風邪ひいたらどうすんだ!」
「は、はい!」
 少女は慌てて脱衣場に駆け込んだ。
「おい、これ」
 扉を閉める前に、瑛太が何かを投げた。少女が反射的に手を伸ばして掴んだそれは、細長くて白い布――タオルだった。
「服脱いだら熱いシャワーを浴びろ。最低でも10分は浴びること。いいか、10分だぞ? 俺はその間に、お前が着れそうな服探しとくから」
「はい!」
「よし、行け」
 少女が扉を閉めた。
 それを見た瑛太は、少女の服を探すために妹の部屋へと向かった。
 扉の向こうの少女は、神視点でそれを視ていた。瑛太が十分に離れたのを確認してから、やっと肩の力を抜く。
「ふゃあぁぁ……」
 ヘナヘナと、脱衣場の床の上に崩れ落ちる。
「こ、怖かったよぉ……」
 その姿は、神を名乗るには情けなさすぎる姿だった。

 * * *

「よっしゃ着いたぞ遊園地! 手始めに、ジェットコースター行こうぜ」
「……苦手。怖いから」
「ならお化け屋敷はどうだ?」
「……それも怖いし」
「わかった。じゃあ観覧車にしよう」
「……高いところは、怖い」
「メリーゴーランドは? あれなら怖くないだろ」
「…………酔う」
「じゃあ何がしたいんだよ……」
「……別になにも」
 そもそも、遊園地に連れてきたのはあにうえだし。私は遊園地が好きじゃない。
「那奈ちゃん、学校行事で遊園地とか行くだろ? その時はどうしてたんだよ」
「……ふつう。友達と一緒に、あちこち回って」
「ジェットコースターとかも?」
「うん、我慢した」
 あれは本当に嫌な思い出だ。私は怖くても顔に出ないし、友達みんなが行くのを嫌とは言えない。
 泣きそうになりながらジェットコースターに乗って、降りてきた時にはぐったりで、それで友達には那奈ちゃんすごいね怖くないんだねとか言われて。
 顔に出ないだけで本当は怖がってるってことをわかってくれた人は、誰もいなかった。
「そっかー。じゃあ水族館にしたら良かったなー」
「…………」
 本当のあにうえなら、私を遊園地に連れてきたりしない。あにうえは、私の好きなものも、嫌いなものも、全部知ってるから。
 だけどこのあにうえは私のことを全然知らなくて、それが少し悲しい。
「まあ、いいや。せっかく来たんだし、歩き回る内にやりたいことも見つかるだろ。俺アイス買ってくるからさ、那奈ちゃんそこで座って待っててよ」
 そう言うとあにうえは、私の返事も聞かずに走っていってしまった。なんで走るんだろう。子供じゃあるまいし、いい年して落ち着きがない。
 とりあえず私は、あにうえが指差したベンチに腰を下ろした。
「あつっ!」
 私は飛び上がった。
 ベンチは太陽の光ですごい熱さになっていた。
「……うぅ」
 お尻がジンジンする。酷い目に遭った。
 お尻をさすりながらベンチを睨んでいると……

 ――ふふっ……。

「……!」
 誰かの笑い声が聞こえた。
 私は声のしたほうを見たけど、人がたくさんいて誰が笑ったのかはわからなかった。
 誰が笑ったのかなんて、わかったところでどうしようもない。それでも、私は知りたかった。
 だってそうじゃないと、みんなが私のことを笑ってるような気がするから。
「…………っ」
 私は顔を伏せた。
 地面を見ながら、立ったままであにうえを待った。
 太陽の光が、じりじりと私の肌を焼く。
 なんだか、すごく惨めな気分だった。
「あれ? なんで立ってるんだ?」
 あにうえが帰ってきた。両手にアイスを持って。呑気そうな顔が、少しむかつく。
 私の心に、八つ当たりしたい気持ちがむくむくと沸いてきた。
「……座って」
 ベンチを指差して、私は言った。
「え、なんて?」
「座って!」
 私はアイスを強引に奪い取った。あにうえは不思議そうにしつつも、ベンチに座った。
「どぅわちゃああああ!!」
 予想以上のリアクションが返ってきた。
「なんじゃこりゃあああ!! 無茶苦茶熱いじゃねえか!」
「う、うん……」
 いや、でもそんなに熱い?
 あにうえが大声を出したせいで、かなりの注目を集めてしまった。みんながあにうえのことを見て笑ってる。私の時より笑ってる。
「うっわー……。つい大声出しちまったよ。すっげー恥ぃ」
 そう言うあにうえだけど、全然恥ずかしそうに見えない。むしろ、なんだか……
「……ぷっ」
「ああ! 今笑った!? 今笑ったよな那奈ちゃん!」
「……笑ってない」
「笑ったって! 絶対笑った!」
「笑ってない」
「現に今も唇の端が引きつってるし!」
「うるさい、静かにして」
 私はアイスの片方を渡して、自分はもう一つのアイスを食べた。あにうえも「絶対笑ってたよなあ」とかぐちぐち言いながら、アイスを食べた。
 暑い日に食べるアイスは、やっぱりおいしい。溶けて垂れそうになるアイスを、垂らさないように気をつけて食べる。
「しまった!」
 あにうえが突然叫んだ。たぶんこれから、馬鹿なことを言う。
「違う種類のアイスだったら、『そっちのアイスはどんな味?』『食べてみる?』『え、いいの?』的な感じで食べさせ合いっこできたのに、つい同じ味を買ってきてしまった!」
 ほら、やっぱり。
 そういうことを、なんで女の子の前で堂々と言えるのかわからない。カナデはこんなあにうえとよく付き合えるなと感心する。
「…………」
 アイスを見る。
 少し食べるのを中断しただけで、早くも溶けかかっている。
「……食べてみる?」
 深い考えもなく、私はそう言っていた。
「え、いいの?」
 さっきのあにうえが言っていたのとまったく同じ会話だった。だけどその前の会話がアレだから、ここでのあにうえの「いいの?」は、「間接キスしてもいいの?」という意味になる。なんかやらしい。
 私はそんなあにうえの変態さを理解した上で、頷いた。
「じゃ、じゃあ、遠慮なく……」
 あにうえの口が、私の手に近づいてくる。緊張で手が震えそうになったけど、なんとか抑える。震えてるせいで間違って顔につけたりしたら、あにうえに悪いし。……いや、それはそれで面白いけど。
 顔面にアイスをつけた間抜けなあにうえの顔を想像しつつも、私はちゃんとあにうえにアイスを食べさせてあげた。あにうえの舌が、私のアイスを掬い取る。
「……!」
 間接キスと思ってたけど、これはそんな軽いものじゃなかった。だって、私の舌がなぞったところをあにうえの舌がなぞってるわけで……。
 言うならば、間接ディープキス?
「うん、うまい。那奈ちゃんに食べさせてもらったら、うまさ2倍増しだな」
 今、私の唾液が、あにうえの中に……
 そこまで考えて、私は首を振った。
「さ、次は那奈ちゃんだ」
「…………っ」
 あにうえがアイスを差し出してくる。
 私は、唾を呑み込んだ。
 間接キスぐらい、今まで何度もしてきた。だって兄妹なんだから。
 だけど恋人っていうシチュエーションが、私の頭を熱くしていた。
 私は、ゆっくりと顔をアイスに近づけていった。溶けかかったアイス。それはさっきまで、あにうえが舐めていたアイスで……
「あ、」
 溶けたアイスが垂れて、あにうえの手についた。
「あにうえ、アイスが……」
 私は、そのアイスを舌で舐め取った。
「――うひ、ぁ!」
 その途端、あにうえが全力で仰け反った。それと同時に、私も気づいた。
 私今、何をした?
 あにうえの手についたアイスを舐めた。つまりは、あにうえの手を舐めた。
「…………!!」
 顔が熱くなった。
 恥ずかしさで死ねそうだった。
 私、なんでこんなことを……
「あー、びっくりしたぁ。俺の想像を超えてたよ。なかなかやるなあ那奈ちゃん」
「ち、ちが……! 私は……」
「ああ、うん、わかってるよ。そんな変なつもりじゃなかったんだろ?」
「え? あ、うん……」
「だけどま、他の男にはしないほうがいいな。気があるって思われたら嫌だろ?」
「うん……」
 あにうえは、思わないんだろうか。私があにうえに気があるっていう風には。
 単に鈍いだけなのか。それとも私が子供だから眼中にないのか。それとも……
「さてと、じゃあ食べ終わったし、行くか。なんか、向こうで水のアトラクションやってるらしいんだよ」
「うん……」
 笑顔のあにうえに、私は生返事しか返せなかった。

 * * *

「どうしてお兄ちゃんは、実の妹がピンチだって時に見ず知らずの女の子を助けちゃうのかなあ?」
「……奏さん、怒ってらっしゃいます?」
「逆に聞くけど、怒ってないと思う?」
「すみませんでした……」
「…………。まあ、悪いことじゃないから、怒るのも変なんだけどね」
 私はため息をつきながら、瑛太くんの家に上がった。
「これで那奈ちゃんにもしものことがあったら、お兄ちゃんのせいだからね」
「奏さん、電話の時と言ってることがまるで正反対……「わかった?」
「はい……」
 もちろん、瑛太くんが本気で落ち込んでたらこんなことは言えない。
 だけど今の瑛太くんは、不思議と落ち着いてる。だからこんな話もできる。
 なんでだろう? 那奈ちゃんが見つかったわけでもないのに、どうして瑛太くんはこんなに落ち着いてるんだろう。
 疑問に思いながらも、私はあえて追及しなかった。
「服、これで大丈夫かな?」
 とりあえずリビングまで通してもらってから、私は持ってきた服を見せた。私が小学生の時に着てた服だ。
「ああ、多分それぐらいだ。悪いけど、風呂場まで持っていってくれるか?」
「うん、いいよ」
 私はお風呂場に向かった。扉を開けて、脱衣所に入る。服を棚に置いてから、私はお風呂場のほうに目をやった。
 瑛太くんから聞いた話だと、この中に10才ぐらいの女の子がいる。髪が長くて、すごく可愛い女の子らしい。
「私も、髪伸ばそっかな……」
 独り言を言いながら脱衣所を出ようとした。
 その時、
「あれ?」
 私はあることに気づいた。ううん、そうじゃなくて、あるべきものがないことに気付いた。
 それは、音。
 こんな夜中だと、湯船のお湯は冷めきってるからシャワーを使うしかない。なのにシャワーの音がしない。瑛太くんの話を聞いた感じだと、お湯を張り直したとは思えない。
 私は、お風呂場の扉をノックした。
「ねえ、いる?」
 返事がない。
 私はもう一度ノックした。
「いないの? ねえ」
 やっぱり返事がない。
 私は思い切って、扉を開いた。
 中には、誰もいなかった。
「どういうこと……?」
 瑛太くんはこんな嘘つかない。だとしたら、女の子が逃げた? どうして……?
 考えるよりも、動くほうが先だ。
 そう思った私は、とりあえず瑛太くんを呼ぶことにした。
「お兄ちゃーん! 来てー!」
「どうした?」
 すぐに瑛太くんはやってきた。そしてお風呂場を見て、固まった。
 そのあと瑛太くんの口から出たのは、予想外の言葉だった。
「奏……。お前、何を……」
「え、わ、私……?」

 * * *

「あわ、わ、わ……」
 今、俺の目の前には、少女の裸身が晒されている。
 未成熟なその身体は一片の起伏もなく、まさしくスットントンと表現して差し支えのない身体だった。
 だと言うのに、いや、だからこそか。白い輝くような肌と、その肌を水滴が伝う様は、どうしようもなく俺の目を引きつけた。
「見ないで、見ないでくだしゃい、おにいたま……」
 少女に懇願されて、俺はようやく気がついた。見てしまったのは不可抗力でも、凝視することはなかった。これで少女の心に深い傷をつけたら、俺はどう責任を取ればいいんだ。
「わ、悪い」
 俺は慌てて目を逸らした。
 目を逸らしてから、この状況を作り出した本人を問い詰めた。
「か、奏っ、お前、何を考えてんだよ!」
「え、わ、私?」
「そうだよお前だよ! 俺に女の子の裸を見せつけてどうしたいんだ! あれか、俺が3次元のロリに反応するかどうか実験したかったのか! だとしたら実験成功だよ無茶苦茶反応しちまったよチクショー!」
「え、な、何言ってるのお兄ちゃん?」
「何もクソもない! 少しはその子のことも考えろ!」
 叫びながら俺は女の子を指さした。もちろん、目は閉じたままだ。
「お、お兄ちゃんは、お風呂場に裸の女の子が見えるってこと?」
「当たり前だろ!」
「もしかして、変態をこじらせて……?」
「変態を病気みたいに言ってんじゃねえ!」
「かなでちゃん、ななちゃんとおんなじこと言ってる……」
 那奈!?
 なんでここで那奈の名前が出てくるんだ!?
「お前、那奈のこと知ってんのか!?」
 俺は思わず目を開き、女の子を問い詰めていた。
「あ……あ……」
「ん? あ……」
 目を開けてしまった。
 しかも、問い詰めるために女の子の傍に駆け寄って、肩まで掴んでいた。
 素っ裸の、女の子の肩を。
「うぇええええん!!」
「ごめええええん!!」
 女の子の鳴き声と俺の謝る声が、真夜中の住宅街にこだました。

 * * *

 先を歩くあにうえ。顔を伏せてついていく私。
 楽しげな音楽。おかしな気ぐるみ。誰かの笑い声。
 だけどどれ一つとして、私のこことを明るくはしてくれなかった。いつもなら少しは楽しめたはずのウォーターアトラクションも、私の心を素通りしていくだけだった。
 モヤモヤする。聞きたい。
 兄妹じゃなくなったこの世界で、あにうえは私のことをどう思っているのか。
 でも聞いたら、全部台無しになってしまう気がする。
 でも、でも……。
「ん? どうした、那奈ちゃん」
 あにうえの声を聞いて、やっと私の心は固まった。
 聞こう。この世界はきっと、その為にあるんだ。
「あにうえ……じゃなかった。瑛太くんは、どうして私をこんなところに連れてきたの?」
 私が聞くと、あにうえはキメ顔で言った。
「だから言ってるだろ? 生き別れた妹と……」
「そういうのいいから」
 ズバッと切り伏せると、あにうえはショボーンとした顔になった。本当にメンタルが弱い。
「……どうしてなの?」
「どうしてって……パンツ見たお詫びに、元気づけてあげよっかなあって思って」
「元気づける?」
「うん。だって那奈ちゃん、すごい元気なかったじゃん? 元々そういう表情のない子なのかなあとも考えたけど、ジュース飲んだ時にはちゃんと笑ってたし」
「…………」
 あの時の「良かった」は、私に表情があることを喜んでたのか。
 表情があるなら、私に元気がないのは間違いない。元気がないなら、元気にしてあげたい。
 それだけで、あにうえは私をこんなところまで連れてきてくれたんだ。
「じゃあ、ナンパじゃなかったんだ……」
 馬鹿みたいだ。変な期待して。
 いくら兄妹じゃなくなったからって、あにうえが私みたいな子供、相手にするわけないのに。
「ナンパという側面もなかったではない!」
 あにうえが言った。ふざける時の言い方だった。
 でも私はふざけたくなかった。
「それ、本気?」
「ああ、本気だとも!」
「私、子供だけど」
「俺からしたら15才は子供じゃない!」
「私は17才……!」
「イダダダっ! ゆ、指が折れる!」
 しまった。ふざけたくないのについふざけてしまった。
 私は深呼吸して、自分を落ち着けた。
「瑛太くんがそれを本気で言ってるなら……」
「那奈さん? 真剣な話するなら、俺の指をへし折ろうとするのやめてくれません?」
「瑛太くんがそれを本気で言ってるなら……」
「無視ですかそうですか」
「私、瑛太くんと付き合ってあげる。……ううん、付き合ってほしい。瑛太くん、私と、付き合って、ください」
「……………………え?」
 私はあにうえの手を離した。
 あにうえは、私の言ってることが理解できないような顔をしていた。
「那奈ちゃん、何言ってるの?」
「付き合ってほしいって言ってる。恋人として」
「もしかして、からかってる?」
「からかってない」
 ここは多分、現実の世界じゃない。だけどそんなこと、どうでも良かった。
 私は、現実の世界じゃ救われない。だったらせめて、この夢の世界で幸せに――あにうえと恋人同士に、なりたい。
 ここでなら、叶えられる。あにうえと兄妹じゃないここでなら、私は許される。
「どうして、俺みたいな奴と付き合いたいって思ったの? 俺みたいな変態がいいって言ってくれるのは、奏だけだと思ってたのに……」
 あれ? 変態の自覚はあったんだ。いつも否定してる癖に。
 でもあにうえは勘違いしてる。変態でも、好きになったら好きなんだ。
「瑛太くん……ううん、あにうえは、覚えてないかも知れないけど、私は知ってる。あにうえのこと。あにうえは、優しくて、強くて、頼りになる人。あにうえが、私の理想の男の人」
「……どっかで会ったっけ? 俺たち」
 あにうえの質問に、私は答えない。
 ただ私は、自分の思いをあにうえに伝える。
「あにうえ。私は、あなたが、好きです」
「…………」
 あにうえは何も言わず、口に手を当てて考え込んでいた。そして私は、その答えを待った。
 どこからか、楽しげな音楽が聞こえてくる。
 私は、もともとこういう賑やかな音楽は好きじゃない。いっそ嫌いって言ってしまいたいぐらいだ。
 だけど今だけは、もっと聞き続けていたいと思う。この音楽も、人のざわめきも……。いろんな音で、私の耳を塞いでほしい。それでこの先の言葉を聞かないで済むのなら。
 あにうえが顔を上げる。
 嫌だ。怖い。聞きたくない。
「那奈ちゃん」
 名前を呼ばれただけなのに、どうしようもないほどの震えが身体を包んだ。
「…………」
 心臓が、音が聞こえてきそうなくらい強く脈打っている。必死に動き回る心臓はだけど、時間を止めることも、私の耳を塞ぐことさえできない約立たずだった。
 いつもは手に取るようにわかるあにうえの気持ちが、今は少しもわからない。大好きなあにうえが、怖くて、恐ろしくて、もういっそのこと答えを聞かずに死んでしまいたいとさえ思った。でも心のどこかでは別の答えも期待していて、せめぎ合う心に、心が壊れてしまいそうだった。
「那奈ちゃん、俺……」
 来る……。
 私は震える手を、無理矢理に握りしめた。
「俺……」

「ごめん、那奈ちゃんとは付き合えない」

 * * *

 女の子の姿は、どうやら私には見えないらしい。
 それどころか、女の子が書いた字や、持ち上げた物や、電気を点けたという事実も、私にはわからなかった。
「この子がしたことの結果は見えてるけど、それが不思議なことだと思えないんだってさ。唯一伝えられる方法が、俺みたいな見える人間を間に入れることらしい」
 瑛太くんが、女の子の言葉を伝えてくれる。
 普通なら受け入れられないことだけど、私はそういう不思議な人がいるってことをもう知ってたから、割とすんなり受け入れられた。
 受け入れると、どうしようもなく気になることが一つあった。
「もしかしてその女の子は、私が公園で会ってた男の人と同じ人?」
 願いに応じて能力や姿が変わるなら、十分にあり得ることだった。
 私は胸をドキドキさせながら、瑛太くんが女の子から答えを聞くのを待った。
「うーん……?」
 だけど、肝心の瑛太くんは微妙な反応だった。
「どうしたの?」
「いや、その……。なんかどっちでもないっぽい……」
「どっちでもない?」
「ああ。本体? てのが別にあって、それは同じなんだけど、身体は別で、性格も別だから――え? ああ、なるほど。それわかりやすいな」
 きっと女の子と会話してるんだろうけど、私には一人芝居にしか見えない。
「今、なんて?」
「生まれ変わりみたいなものだって」
「生まれ変わり……?」
「そう、生まれ変わり」
 それは確かに、どっちでもないかもしれない。
「それで、那奈は今どこにいるんだ?」
 瑛太くんがそう言ってるのを聞いて、私はハッと気がついた。
 そうだ。今大事なのは、那奈ちゃんのことだ。
 もともとその女の子は、那奈ちゃんの行方を瑛太くんに伝えるために現れたらしい。
 那奈ちゃんが無事だってことは、もう確認した。あとは、那奈ちゃんがどこにいて、そこで何をしているのか、だけど……。
「…………」
 瑛太くんが神妙な顔つきで空中を見ている。時たま頷いたりしてるから、話を聞いてるのがわかる。
 私は邪魔しないように、じっと待った。
「……わかった」
 話を聞き終えたらしい瑛太くんが、そう言って立ち上がった。
「お兄ちゃん……?」
 どんな話だったの? どこに行くの? 私には教えてくれないの?
 いろんな意味を込めて、私は瑛太くんを見た。
「悪い、奏。お前は家に帰ってくれ」
 なんとなく、そう言われるような気はしてた。
「私には、言えないんだよね」
「…………悪い」
 悪いのは私のほうだよ……。
 心の中でそう思ったけど、口には出さなかった。
「……わかった。行ってきて。私、ここで待ってるから」
「いや、でも……」
「那奈ちゃんは」
 瑛太くんの言葉に被せて、私は言った。
「私にとっても、大切な子なの。瑛太くんと付き合ってるかどうかなんて関係ない。仮に瑛太くんと別れたって、私は那奈ちゃんが好き。那奈ちゃんに嫌われたって、私はそんな那奈ちゃんを受け入れられる」
 きっと瑛太くんは、私と那奈ちゃんが喧嘩するんじゃないかって心配してる。だから私に事情を話せないし、連れていけない。
 私は、がんばって瑛太くんを睨みつけた。そしたら瑛太くんは、「まいったな」と言って頭を掻いた。
 ほらやっぱり、私の思った通りだった。
「じゃあ、待っててくれ。きっと上手くやってみせるから」
「それじゃダメだよ。お兄ちゃんは上手くやろうとしたらダメ。何も考えないでやるのが、一番いいの」
 瑛太くんは、また頭を掻いた。
「……わかった。何も考えないようにがんばる」
「うん、それで良し」
 私は笑った。瑛太くんも苦笑いだけど、笑ってくれた。
 2人で玄関に行った。靴を履く瑛太くんを横で見守る。なんだか新婚さんみたいだな、なんて、こんな時なのに呑気なことを考えた。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
 瑛太くんが扉を開けて外に出る。そして、扉が閉まる。
 私は、一人きりになった。
 リビングに戻って、ソファに腰掛ける。目をつぶってじっとしていると、瑛太くんの前では抑え込めていた何かが、胸の奥から込み上げてきた。
 それは、罪悪感だった。
「ごめんね、那奈ちゃん……」
 伝わらない言葉に意味なんかない。わかってても、私は言った。だってこれは、伝えちゃいけない言葉だから。
「ごめんね、那奈ちゃん……」
 膝の上に涙がこぼれる。
「ごめん、ごめん、ね。ごめ……」
 喉が詰まる。言葉がうまく出せない。
 それでも私は言い続けた。

 ――瑛太くんと付き合ってるかどうかなんて関係ない。
 ――仮に瑛太くんと別れたって、私は那奈ちゃんが好き。
 ――那奈ちゃんに嫌われたって、私はそんな那奈ちゃんを受け入れられる。

 だけど……。
 那奈ちゃんが瑛太くんと付き合ってたら、私は那奈ちゃんのことを受け入れられないんだろうなあ。
「ごめんね、那奈ちゃん。嫌な女で、ごめん……」
 誰もいない家の中で、私は謝り続けた。

 * * *

「そんなに自分をせめちゃだめだよ……」
「何だって?」
「ううん、なんでもないよ」
 少女はそう言って首を振った。
 瑛太はそんな少女の様子を見て、首を捻りつつも視線を進行方向に戻した。
 雨上がりの夜道を瑛太と共に歩きながら、少女は何かを考えているようだった。
 瑛太はそれを気にしつつも、何も言わずに歩く。
 そして駅までの道のりが半ばに差し掛かった頃、少女が口を開いた。
「おにいたま。ボクは今、なにを考えてるのかな?」
「…………は?」
 瑛太は立ち止まった。少女のほうを振り返ったその顔は、奇怪な動物でも見るかのような目をしていた。
「ち、違うんだよっ! そ、そうじゃなくて……! えと……、と、とにかく、そんな目で見ないで!」
 そう言われた瑛太は、とりあえず一度視線を逸らした。しばらく考えるような素振りをしてから、視線を戻して、言った。
「考えがうまくまとまらないとか、そういうことを言いたかったのか?」
 瑛太なりに真剣に考えた末に出した答えだったのだろうが、少女の様子を見るに、正しい答えではなかったようだ。
 少女は惨めそうにしながらも、ぽつぽつと語り出した。
「さっきも言ったけど、ボクはおにいたまの願いから生まれたんだよ」
「ああ、そう言ってたな」
「だからボクは、ボク自身がなにを思ってるのか、たまにわからなくなるんだよ。なにをするのがボクなのかは、すぐわかるんだ。だけどどうしてそうするのかっていうところが、さっぱりなくなってるんだよ」
「そうなのか?」
「うん……。今も、なんでボクがこんな話をしてるのかわからない。人にこんな話、したことないのに……」
 悩ましげにため息をつく少女。それはあまり、少女には似つかわしくない仕草だった。
 それを見た瑛太が、何の前振りもなく少女の頭を撫でた。
「おにいたま……?」
 少女が不思議そうに顔を上げる。
 瑛太は、穏やかな笑顔で少女のことを見つめていた。
「いや、ごめん。なんか、嬉しくてさ」
「うれしい?」
 少女は瑛太の声を聞いて、怒ったように頬を膨らませた。しかし瑛太の邪気のない笑顔を見て、不思議そうに目を瞬かせた。
「うん、なんつーかさ。俺頭悪いから、人の悩みとか聞かされても、ろくなこと言ってやれないんだ。だけど、それでもこうやって人に悩み打ち明けてもらえんのは、なんかスゲー嬉しい。頼ってもらえてるって感じで」
 瑛太は少女の頭を撫でたまま、膝を曲げた。瑛太と少女の目線が、同じ高さになる。
「ありがとな。頼ってくれて」
 少女が、目を丸くした。その頬は、ほんのり赤く染まっている。
 瑛太は立ち上がり、先程と同じように歩きながら、先程と同じ口調で話し始めた。
「にしてもさ、それならお前はどこにいるんだろうな」
「ど、どこに……?」
「ああ。自分が何を考えてるのかわからなくても、考えてる自分がどこかにいるはずだろ? じゃないと答えが出るはずないんだから」
「……それは、おにいたまの中だよ」
 答えた少女は、悲しそうに目を伏せていた。
「おにいたまの願いが、ボクの元なんだから。おにいたまの願いが答えだけをボクに伝えてるんだよ」
「それがもうおかしいんだよ」
 瑛太の否定の言葉に、少女は立ち止まった。
「おかしい、かな……?」
「おかしいよ。答えを出してんのは俺の願い。それを受け取ってんのが、お前の本体だろ? じゃあ、悩んでるお前はどこだ?」
「それは……、本体のほうじゃ……」
「だったら今、俺以外の人間の前にいるお前の同類は、悩んでるのか?」
「悩んで……ないよ」
「だろ? じゃあ少なくとも、悩んでるお前はいるってことじゃねえか」
「…………ボクは、いる」
「お前の世界って、どんなんなんだろうな」
 瑛太は月を見ながら、しみじみと言った。
「自分が何を考えてんのかわからない世界なんて、そんなの俺には想像もつかねえよ」
「えっと……、お話で言えば、三人称視点のお話みたいなもの、だと思うよ。人も自分も、同じに見えるの」
「ああ、ようするに神視点な。俺はどっちかって言うと、一人称視点のほうが好きだな。なんかこう、物語の中に入っていきやすいんだよな、一人称のほうが」
「ボクは……」
 少女も、月を見た。
 月を見る少女が何を考えているのかは、三人称視点ではわからない。
「ボクも、一人称視点のほうが好き」
「そうか?」
「うん」
 わかるのは、少女が微笑みながらも、どこか寂しげだということだけだった。

 しばらくして、瑛太と少女は駅に着いた。
「着いたよおにいたま。この中に、ななちゃんがいるよ」
「…………」
「おにいたま?」
「……うん、決めた」
 瑛太が虚空に向かって大きく頷いた。どうやら、何か考え事をしていたようだ。
「なにを決めたの?」
「お前の名前だ」
「……そんなこと考えてたの?」
 呆れた様子の少女に、瑛太は憤慨した。
「そんなこととはなんだ。お前だって、名前があったほうがいいだろ?」
「それはそうだけど……。おにいたまは、もっとななちゃんのことを考えたほうがいいと思うんだよ」
「いや、それに関しては、奏に考えるなと言われてる」
「だからってさっぱりしすぎだよ……」
「まあまあ、それより聞いてくれよ。俺の考えたお前の名前」
「うん、聞くけど……」
「お前の名前は、神保久遠だ!」
「神保、久遠……」
 少女は噛み締めるように、その名前を繰り返した。
「どうだ? いいだろ?」
「……うん。へんてこな名前だけど、すっごく嬉しいよ!」
「へんてこ……」
 純粋な少女の言葉に、瑛太はガックリと肩を落とした。。
「でも、どうして神保久遠なの?」
 どういう漢字を当てるのかを確認したあと、少女は瑛太に尋ねた。
 散々扱き下ろされた瑛太は、少し疲れ気味の声で言った。
「……いや、もう溜めても何もないから率直に言うけどさ、本当はお前の名前は『ボク』にしたかったんだよ」
「ボクの名前を、『ボク』に?」
「ああ。そうしたら、お前の世界が神視点でも、お前は自分のことを『ボク』って言えるだろ?」
「!」
「でもそのままだとさすがに味気ないから、頭に神と、最後に遠いを足した。呼び名はもちろん、『ボク』だ」
 瑛太の言葉に、少女は――否、ボクは打ち震えた。
「おにいたま……」
「でもやっぱダサいかな? 間に濁点入る時点で難しいんだよな。だけどせめて下の名前だけでも……」
「おにいたまっ!」
「おわっ!」
 ボクは瑛太に抱きついた。瑛太はたまらず、その場に尻餅をついた。
「おにいたま……。ありがとう、おにいたま」
「……気にいってくれたみたいで、嬉しいよ」
 瑛太は、膝の上に乗ったボクの頭を優しく撫でた。
 ボクはしばらくの間、瑛太の胸に身体を預けていた。
 その時間は間違いなく、ボクにとっては幸福な時間だった。

「んじゃ、行くか」

「うん」

 そしてボクと瑛太は、駅の中へと入っていった。

 * * *

「ごめん、那奈ちゃんとは付き合えない」

 鉄の重りを呑まされたような気分だった。
 そう言われるとわかってたはずなのに、ショックでしばらく言葉が出なかった。
 振られたのは2回目なのに、胸の痛みは少しも変わらなかった。むしろ1回目よりも、強く心の底まで打ちのめされたように感じる。
「それは、私が妹だから……?」
「妹? 何言ってるんだ?」
 一縷の望みを託した問いかけも、あっさりと否定される。だったらどうしてと聞いた私に、あにうえは、一言一言確かめるように答えた。
「付き合えないのは、俺に付き合ってる彼女がいるからだ。奏って言うんだけど……」
「カナデと付き合ってなかったら、あにうえは私と付き合ってくれてた?」
「それは……。付き合ってたと、思う」
「会ったばかりの私と?」
「なんか、会ったばっかって気がしないんだよな、那奈ちゃんは。不思議だよな」
「…………」
 不思議でもなんでもない。
 だって、本当のあにうえは私のことを知ってるんだから。
「あにうえは、私とカナデと、どっちが好き?」
 言いながら、酷く身勝手な質問だと思った。
 だけどあにうえは、きっと、こんな質問にも真摯に答えてくれる。だって、あにうえだから。
 あにうえは、地面を見たまましばらく考え込んでいた。そして顔を上げて、悲しそうな顔で言った。
「…………奏のほうが、好きだよ。だって俺、奏のことを……」
 あにうえは、顔を真っ赤に染めた。まるで息ができないみたいに、口をぱくぱくさせて……
「あ、あい、愛して……るんだ」
 変態とは思えないセリフを言った。
「そう……」
 愛……。
 私はその言葉と、その言葉に込められた意味を、胸の中で噛み締めた。
「愛してるんじゃ、仕方ない……」痛い。
「うん、悪いな」胸が痛い。
「別に、いい……」どうして私じゃないんだろう。
「あー、良かった。泣かせたらどうしようかと思ってたから」どうして、こんな……。
「私はそれくらいで泣かない」なきたい。
「そうだよな。那奈は、強い子だもんな」あにうえ。
「そう」あにうえ。あにうえ。いやだ、私は……。
「いや、でもさ、泣いたらどうしようってのの他に、諦めてくれなか……」

 「――いやだ!!」

 その瞬間、私の中で何かが変わった。それと同時に、あにうえの声が途切れた。
 あにうえの顔が、歪んでいた。周りの景色も、歪んでいた。まるで水に溶かした絵の具みたいに、混ざり合っていく。
 景色の歪みはどんどん酷くなっていく。それと共に、暗くなっていく。私はそれを、目を閉じずに眺めていた。


 目を開けば、そこは元いた駅のホームだった。
「……っと」
 少しふらついて、こけそうになった。どうも私は、立ったままでさっきの夢を見ていたらしい。
 …………夢?
 比喩のつもりで使った夢という言葉だけど、もしかしたら本当に夢だったのかも知れない。
「神様……?」
 呼びかけて辺りを見回してみたけど、にゃー子ちゃんの姿をした神様は、もうここにはいないみたいだ。
 自分の役目は終わったと言わんばかりに、その姿を消していた。
「…………」
 私は目をつぶった。
 瞼の裏の暗闇を見つめながら、もう一度自分の心を見つめ直した。
 うん、大丈夫。もう大丈夫だ。
「那奈……」
 名前を呼ぶ声が聞こえて後ろを振り返ると、あにうえがいた。
「……あにうえ? なんでここに?」
「探したからに決まってるだろ……」
 あにうえはぐったりしていて、すごく疲れてるみたいだった。
「探したって……」
 こんな場所にいる私をそう簡単に見つけられるとは思えない。それを見つけてくれるなんて、どれだけがんばって探してくれたんだろう。そのことを考えただけでも、胸が熱くなる。
「あ、あのさ那奈……」
 あにうえは、気まずそうに目を泳がせていた。
「ごめ……あ、いや違うか……。その、俺さ……、なんて言うか……」
 口ごもるあにうえ。それを見てる間に、私はだんだん冷静になってきた。
 さっき決意したこと。それをするなら、まずは確認したい。
「あにうえ」
「…………なんだ?」
「あにうえは、私が妹じゃなかったら、付き合ってくれてた?」
「それは……、付き合ってないと思う」
「どうして?」
「……俺は、奏と付き合ってるから」
 ああ、夢の通りだ。
「カナデと付き合ってなかったとしたら?」
「それは……。付き合ってたと、思う」
「私とカナデ、どっちが好き?」
「…………奏のほうが、好きだよ。だって俺、奏のことを…………あ、あい、愛して……るんだ」
 ああ、同じことの繰り返しだ。
 あにうえは、本当に馬鹿だ。正直なことがいいことだって思い込んでるんだから。
 私が傷つくことなんてなんとも思ってない? ううん、そうじゃない。これが、あにうえの優しさなんだ。
「わかった。帰る」
「那奈……?」
「帰る」
 私はあにうえを無視して、駅の出口へと歩き出した。
「あ」
 忘れてた。
「あにうえ」
「な、なんだ?」
「探しにきてくれて、ありがとう」
 あにうえを見た。鳩が豆鉄砲食らったような顔ってこういうのを言うんだろうなって思った。

 * * *

「那奈、ちょっと待ってくれないか?」
 帰ろうとする那奈を、瑛太はそう言って呼び止めた。
「どうして?」
「お前の居場所を教えてくれた子と、話をしたいんだよ」
「……? どこにいる? その子」
「おにいたま……?」
 ボクと那奈は、不思議そうに瑛太を見た。
 瑛太はボクの前に立ち、まっすぐにその目を見つめた。
「久遠ちゃん。俺の願いを、叶えてくれないか?」
「え……? でも、ななちゃんはもう……」
「それとは別の願いだ」
「別の……?」
「そうだ。久遠ちゃん。俺の……」

「俺の妹になってくれないか?」

 ボクの顔が引きつった。
「あにうえ、何言ってる?」
 那奈が表情を変えずにそう言った。心配しているのか、呆れているのかはその表情からはわからない。
「悪い、那奈。今真剣な話をしてるところだから、少し静かにしててくれ」
「真剣に妹になってほしかったのか……」
 どうやら、呆れているようだ。
「あ、あの、おにいたま……、ちょっと意味がわからないんだけど……」
「そのままの意味だ。俺の妹になってくれ」
「ど、どうして?」
「お前に消えてほしくないからだよ」
「!」
 ボクが驚きに目を見開いた。
「消えてほしくない……?」
「ああ。お前は、俺の願いを叶えるための存在なんだよな? それはつまり、願いが叶ったらお前は消えるって意味だ」
「き、消えないよ。言わなかった? ボクの本体は……」
「そんな見えない奴の話はしてない」
 瑛太は、切り捨てるようにボクの言葉を遮った。
「俺はお前の話をしてるんだ。いいか? お前とお前の本体は、別物だ」
「…………」
「那奈が無事だってわかってから、ずっとそのことが心にかかってた。どうしたらお前を消さずに済むか、ずっと考えてた。それで、閃いた。お前は願いを叶えてくれる。だったら、お前が消えないでほしいっていう俺の願いも、叶えてくれるはずだ」
「だからボクは、まだ消えてないんだね……」
 瑛太の言ったことは言葉にするのは簡単でも、実現するのは不可能なはずだった。
 彼女たちは、どんな願いでも叶えるわけではない。いつか忘れてしまうような軽い願いでは、彼女たちは現れない。
 しかし現にボクが消えていないということは、瑛太は一生をかけるほどの強い願いを胸に持っているということだ。
「どうして、会ったばかりのボクにそこまで……」
「会ったばっかとか関係ないだろ」
「関係なくないよ! かなでちゃんは泣くほど引き止めたのに、それでも消えちゃったんだよ? なのに、おにいたまは……」
 そこでボクは、ハッと息を止めた。
 瑛太の目を見る。その真剣な眼差しを。そこに何を見たのか、ボクは身体を震わせ、口に手を当てた。
「……もう一回言うぞ。俺の、妹になってくれ」
「……っ、……っ」
 一筋の雫が、ボクの頬を伝って、落ちた。

「うん……」

 嬉しすぎて、それ以上の言葉が出せなかった。
 涙があとからあとから出てきて、止めることができなかった。
「良かった……」
 おにいたまが、小さい声でそう呟いたのが聞こえた。
 ボクは自分を抑えきれなくなって、思いっきりおにいたまに抱きついた。
 大きな胸の中で、ボクはこれまでに感じたことがない安らぎを感じていた。
 そう、これが安らぎ。
 あと喜びと、感謝と、幸せと……。
 自分の感情を表す言葉がどんどんどんどん思いついたけど、その内のどれも、足らないような気がした。
 自分の心が、わかる。そのことがとても嬉しかった。
 それに何より、この世界に居場所を見つけられたことが、ボクは嬉しかった。

 * * *

 玄関のドアが開く音が聞こえた。
 私は慌てて立ち上がって、玄関に走っていった。
「瑛太くん!?」
「よ、奏。ただいま」
 瑛太くんのその声を聞いただけで、上手くいったんだってことがわかった。
 そして瑛太くんの後ろには……
「那奈ちゃん!」
「……こんばんは、カナデ」
 那奈ちゃんがいた。
 私は思わず駆け寄ろうとして、はっと気づいてすぐにやめた。
「心配かけたな、奏。見ての通り、那奈はもう大丈夫だ」
「大丈夫……なの?」
 私は那奈ちゃんに聞いた。
 那奈ちゃんが、こくんと頷いた。
 私はそれでも安心できなかったけど、瑛太くんは安心したようなため息を漏らした。
「あ、あのぅ……」
 玄関の外から、気の弱そうな声が聞こえた。
 そっちに目を向けると、髪の長い女の子がいた。
「何してんだよ。早く入ってこい」
 瑛太くんが靴を脱ぎながら、そう言って手招きする。
 私はそんな瑛太くんに、こっそりと尋ねた。
「……瑛太くん、あの子、誰?」
「さっきシャワー浴びてた子だよ。いろいろあって、俺の妹になった」
「どんないろいろがあったらそうなるの……?」
 ここまで来ると、怒りを通り越して呆れてしまう。
「た、ただいま、です……」
「おう。おかえり」
 女の子が、おずおずと靴を脱ぐ。
 確かに瑛太くんが言っていた通り、すごく可愛い。作り物めいて見えるぐらいだ。うらやましい。
「……カナデ」
「わっ! な、那奈ちゃん? なに?」
「…………」
 那奈ちゃんは何も言わずに、私の身体を撫でた。相手が瑛太くんだったら悲鳴をあげないといけないような触り方だった。
「な、なにかな?」
「カナデ、濡れてる……」
「あ、そういえば……」
 一応傘をさしてきたんだけど、走ったりもしたから濡れちゃったんだ。
「気にしないで那奈ちゃん。別に私は……」
「ふにうえ」
「了解」
 兄妹で謎のやりとりを交わすと、瑛太くんはお風呂場に向かっていった。
「えっと……?」
「……カナデ、お風呂、入ろ?」
「え? い、いいよそんなの! 帰ってから入るから!」
「それじゃ風邪ひいちゃう。……私のせいだから、だから遠慮しないで」
「風呂のお湯がもう張れてる!」
 お風呂場のほうから、瑛太くんの声が聞こえてきた。
「奏がやってくれたのか?」
「う、うん」
 濡れた手をズボンで拭いながら戻ってきた瑛太くんに、私は頷いて答えた。
「ごめんね、勝手にやっちゃって」
「謝ることなんてない! やっぱ気が利くな、奏は」
「うん、ありがと……」
「……やっぱり入ろ? カナデ」
「え、でも……」
「……私、今日はなんだか寂しくて、1人になりたくない」
 え? なんだろういきなり。お風呂の話は?
「え? そうなのか?」
 瑛太くんが心配そうな顔をした。那奈ちゃんにも見えてるんだろうけど、あえて無視してるみたいだった。
 那奈ちゃんが、顔を俯けながら言った。
「……カナデが一緒にお風呂に入ってくれなかったら、私あにうえと一緒に入らないと……」
「よし、帰ろうか奏。車で送ってくよ」
「那奈ちゃん、一緒にお風呂入ろう」
「待て奏。那奈のことは俺に任せろ。心配しなくてもいいから、お前は帰るんだ」
「お兄ちゃんが心配だよ!」
「……カナデ、行こう」
 那奈ちゃんが私の手を引いた。
「クオン、あにうえが覗かないように見張ってて」
「うん! わかった!」
「ま、待ってくれ奏、那奈。お、俺も一緒に……」
「だめだよおにいたま」
「そ、そんな……妹の生おっぱい~!!」
 なんで私は瑛太くんと付き合ってるんだろう。
 瑛太くんの最後の一言は、私に改めてそのことを考えさせた。

 * * *

「……カナデ、早く服脱いで」
「ちょ、ちょっと待って」
 この年になって恥ずかしいことだけど、私は自分の家のお風呂以外はほとんど入ったことがない。だから未だに、人前で服を脱ぐのは少し緊張する。たとえそれが同性でも。
 那奈ちゃんは私とは違って、あっという間に服を脱いでしまった。一糸纏わぬ姿の那奈ちゃんを直視できない。同性なのに。
「……どうしたの?」
「な、なんでもないっ!」
 私は大きく首を振りながら、服の裾に手をかけた。
 怖気付く自分を無理やり奮い立たせて、ひと思いに服を脱いだ。
「……おー。大きい」
「そ、そんなに見ないで……」
 遠慮のない目線が耐えきれなくて、私は両腕で胸を隠した。
「恥ずかしがることない。私たち、女どうし」
「そうだけど……」
 わかってても、やっぱり恥ずかしい。
「それに、そうしてるほうがなんだかやらしい」
「え? なんで?」
「谷間がすごいことになってる」
「う……」
 確かに、これは寄せてるみたいに見えるかもしれない。
 私は渋々腕を解いた。
「…………」
 那奈ちゃんが私の胸に顔を寄せて、至近距離から見つめてくる。
 私は早くお風呂に入ってしまいたいのに、これの状況だととても服が脱げない。
「…………」
「…………」
「…………えい」
「うびゃあ!!」
「えいえいえいえい」
「ぃやあああ!! やめ、やめぁ、あんっ! だ、だめぇ! ぁふ、な、生は……、ふぁっ、あああああ!!」

 * * *

「……ということが今風呂場で起こっているに違いない!」
「おにいたまの変態……」
 少女にまで変態扱いされる俺。
 だがもう気にしない。今回のことをきっかけに、俺は自分が変態だと認められるだけの大きい器を持つことができたのだ。
「その通り、俺は変態だ! だから久遠よ! 俺の胸に飛び込んでこい!」
「え、あ、あの……」
 久遠の目が、盛大に泳ぐ。飛び込むべきかどうか悩んでるみたいだ。
「えーっと、わ、わーい……」
 結局、飛び込むことを選んだらしい。気乗りしなさそうに走り込んでくる久遠。
 俺はそんな久遠の肩に優しく手を置いて、そっと押し戻した。
「お、おにいたま……?」
「もういい久遠。お前はそこに座って、大人しくテレビでも見ているんだ」
「う、うん……」
 言われた通りにソファーに座る久遠。
 奏と那奈は、俺の変態発言にはしっかりとツッコんでくれる。だけど久遠は、恥ずかしそうにしながらも、言った通りにしようとする。
 そういう素直なところはとてつもなく可愛らしいが、これは下手をすると、取り返しのつかないことになってしまう。
 自制心が、試されている……。
「……落ち着け俺。俺は子供に手を出すようなクソ野郎じゃないはずだ。あと10年……いや、5年の辛抱だ。それまで待つんだ、俺」
 自分にしっかりと言い聞かせてから、久遠を見た。久遠は、リモコンでテレビを点けるところだった。あ、そういえばこんな夜中じゃ、ロクな番組やってないんじゃ……
 違う! 今日のこの時間は……!
「待て久遠!」
「え?」
 俺の制止より、久遠がリモコンのボタンを押すほうが早かった。
『――ぁはあん、あん、あはーん』
 途端にテレビから流れるエロボイス。画面の中では、女の子が○○を△△されている。
 俺が毎週欠かさず録画している、18禁寸前のエロアニメだった。
「なっ、なだ、だだがこ、こ、ななななな」
「くそっ!」
 俺はすぐにリモコンを取り上げ、電源をオフにした。
 それでもしばらく久遠は復活の呪文を唱え続けていたが、俺がお茶を持ってきて飲ませると、なんとか落ち着きを取り戻した。
「ふぅ……」
 久遠は深く息を吐きながら、両手で持ったコップをテーブルの上に置いた。
「だ、大丈夫か? 久遠」
「だ、だ、大丈、夫、だけど……」
「だけど?」
「…………おにいたまの、へんたい……」
 切なそうな声色で言われるのは、さすがの俺も心に響くものがあった。

 * * *

「……ということが、今リビングで起こってると思う」
「なんだか、すごくありそう……」
 私たちは2人で浴槽に浸かりながら、益体もない話をしていた。
 普通の大きさのお風呂だから、2人入ると狭い。だけど雨で身体がすっかり冷えていたから、とりあえず2人で浴槽に入ることにした。
「お兄ちゃんは、変態だもんね」
 足の位置をずらしながら、私は言った。だんだんと曲げてる膝を伸ばしたくなってきたけど、そうすると向かいにいる那奈ちゃんに足が当たっちゃうから、今は我慢するしかない。
「…………」
 話が途切れた。なんだか気まずくなる。
 何か話さないとと思うけど、思いつかない。
 結局私は、黙ったまま「……お兄ちゃん」
「え?」
「カナデは、あにうえのことを『お兄ちゃん』って呼んでる」
「あ、うん。そうだよ」
 那奈ちゃんが何を言いたいのか、よくわからない。
 気まずさだけが募っていく。息苦しく感じられるほどだった。
「……最初にカナデがそう言ってるのを聞いたとき……」
 天井から、雫が落ちた。
「……『妹』まで、カナデに取られると思った」
「と、取られるって……」
「カナデがあにうえの全部を持っていっちゃうって思って、怖くなった。それで私は、あにうえに想いを伝えた」
「え……じゃあ、男の子に振られたのは……?」
「あんなの、ほとんど気にしてない。私はあにうえにさえ好きでいてもらえたらそれでいいんだから」
 嘘だ。いくら那奈ちゃんでも、そんな風に割り切れるとは思えない。
 でも今の那奈ちゃんは、本気でそう思ってるように見えた。
「でもあにうえは、私を好きじゃなかった」
「そんなことないよ!」
 お風呂場に、私の声が木霊した。
「おに……瑛太くんは、那奈ちゃんのこと好きだよ! だって那奈ちゃんがいなくなった時、すごく心配してたんだよ!?」
「そう、あにうえは私が好き。だって、あにうえが言ってた。カナデの次に好きだって」
「っ!」
 瑛太くんなら、そう言うだろうと思った。
 そう言うだろうと思った? ううん、私がそう言うように仕向けたんだ。
「あにうえは、私があにうえのことをあきらめたと思ってた。でも、あきらめられるわけがない。あきらめるとか、あきらめないとか、そういうものじゃない。兄妹だとダメとか、彼女がいるとか、好きじゃないとか、全部どうでもいい。だって、好きだから。どうしようもなく好きで、私は、なにがなんでもあにうえの一番になりたい。あきらめるなんて無理だから、それならがんばるしかない」
「な、那奈ちゃん……」
 怖い。
 那奈ちゃんが、怖い。
「カナデは、あにうえのタイプじゃない」
「!」
「たとえば、さっきの脱衣所でのこと。あにうえがあれを想像するとしたら、きっと私とカナデが反対になるんだと思う。カナデが恥ずかしがって、私がちょっかいを出してるところを想像すると思う。だってあにうえの中のカナデは、人の身体を触ったりしない、恥じらいのある人だから」
 那奈ちゃんが言いたいこと、痛いほどわかる。
 私は瑛太くんの望む女の子じゃない。だから一生懸命自分を取り繕ってる。
 それがいつも、後ろめたくて……
「それって、すごいと思う」
「……え?」
「それだけカナデはあにうえのことを好きなんだって思ったら、ちょっと感心した」
「…………」
 皮肉? 本心? よくわからない。那奈ちゃんは表情が変わらないから。
 だけどそういう捉え方もあるんだって思ったら、少し救われた気分だった。
「でも、負ける気はない」
 那奈ちゃんは、毅然として言った。
「無理してるカナデが、あにうえと長続きするはずない」
「そ、そんな……」
「私もアタックする。そしたらあにうえも、私とカナデ、どっちが理想の彼女か、気づく」
「ま、待ってよ。仮に、万が一、私が瑛太くんに振られたとしても、那奈ちゃんと瑛太くんは兄妹だから付き合えないよ」
「そうかも」
「じゃあ……」
「でも、そうじゃないかも」
 那奈ちゃんはすごく、堂々としていた。ついさっきまで裸を見られるのを恥ずかしがってた那奈ちゃんとは大違いだった。
「障害は、1つずつ取り除く。カナデがいなくなってもあにうえが振り向いてくれなかったら、その時はもう一度考える」
「そんな一か八かのことで私たちの仲を引き裂かないで……」
「妹に引き裂かれる仲なんて、どうせ長続きしない」
 やたらと自分を過小評価するあたりは、やっぱり兄妹だった。
「…………はぁ」
 これからのことを思うと、ため息が出る。
 やっぱり、あの時帰るべきだった。聞かなければ、こんな胃が痛くなるような思いしなくて済んだのに。
「……那奈ちゃんは、どうして私にそのことを話したの?」
 黙っていれば、もっと有利にことを運べたのに。話してしまったら、私はなんとかしないとって思うから、那奈ちゃんにとっては都合が悪いはずだ。
 そんな私の疑問に、那奈ちゃんはこう答えた。

「……カナデが、好きだから」

「好き……?」
「うん。カナデと気まずくなるのは嫌。だから全部話した」
「好き……」
 私も、那奈ちゃんのことは好きだ。
 だけど私は、那奈ちゃんに瑛太くんを取られたら、好きでいられる自信がない。
「……身勝手だってわかってる。でも、言う」
 那奈ちゃんは、言った。
「カナデお願い。これからも、仲良くして」
 那奈ちゃんは、私に瑛太くんを取られたのに、私のことを好きって言ってくれる。そんな那奈ちゃんが、とても眩しかった。
「なな、ちゃん……」
「カナデ?」
 私は那奈ちゃんの腕を掴んだ。一気に身体を引き寄せて、その身体を抱きしめた。
「や、カナデ、これは、ちょっと……」
「好きだよ」
 直に伝わる那奈ちゃんの体温を感じながら、私は言った。
「那奈ちゃんのこと、好き。瑛太くんと付き合ってるかどうかなんて関係ない。瑛太くんと別れたって、私は那奈ちゃんが好き。那奈ちゃんに嫌われたって、私は那奈ちゃんが好き。……那奈ちゃんが瑛太くんと付き合っても、私は那奈ちゃんのことが好き」
 それは、私の本心じゃない。那奈ちゃんもそのことに気付いていたのかもしれない。でも……
 私は、胸の中にいる那奈ちゃんの顔を見た。
 那奈ちゃんは相変わらず無表情で、だけどどことなく嬉しそうに見えた。
 ――さっきの言葉、きっと本物にしてみせる。
 私はもう一度、那奈ちゃんのことをぎゅっと抱きしめた。

 * * *

「風呂なげーなー」
「そうだねー」
 久遠は撮りだめしてあったアニメを見ながら、俺は特に何もせずに、2人が風呂から出てくるのを待っていた。
 しかし改めて時計を見てみれば、入ってからかれこれ40分は経とうとしている。深夜で眠いのにこれ以上は待てない。
「ってか今気づいたんだけど、俺が入るのは更に久遠が入ってからになるんだよな」
「にゃ? べつにおにいたまが先でもいいよ? ボクまだ眠くないし」
「そうはいかんだろ……。よしじゃあこうしよう。2人で一緒に入るんだ」
「え……」
 久遠が顔を真っ赤に染めた。
 口をぱくぱくさせて何か言おうとしてるけど、声にはなってない。
「……悪い、冗談だ」
 結局、俺がこう言うしかなかった。
「……え、あ、じょうだん……。はぁ……、よかった」
 本気で安心した素振りを見せる久遠。純粋すぎて、泣けてくる。
 那奈の辛辣なツッコミを少し恋しく思いながらも、俺は2人が出てくるのを待ち続けた。


 ――10分後。
「もう限界だ! 突入する!」
「だ、だめだよ! ななちゃんがだめって言ったんだから!」
「いやもう無理だ。理性の限界だ。そもそもすぐ近くに奏の裸があるのにここでじっとしてる俺なんて、俺じゃない!」
「おにいたま、落ちついて! なんかすごいこと言ってるよ!」
「男なら覗きをするべきだ!」
 なんか主旨がすり変わってる気もするが、とにかく俺は行く!
 ソファーから立ち上がって、俺は風呂場へと向かった。
「だめっ!」
「うわっ!」
 そんな俺を引き止めようとして、久遠が俺の腰に抱きついてきた。
 予想以上の強烈なタックルに、俺はバランスを崩した。抱きついてきた久遠も、一緒に倒れる。
「きゃああ!!」
「ぐっ!」
 とっさのことで受身も取れずに、俺は全身を強かに打ち付けた。
「ぐ……」
 目の前がチカチカするほどの痛み。痛すぎて、呻き声をあげることもできない。
「あ、あれ? 痛くない?」
 どうやら久遠は無事だったらしい。良かった。本当に。
「……おにいたま、ボクを庇ってくれたの?」
「んぅ……」
 見ると、俺の腕は久遠の身体を抱き抱えて衝撃から守っていた。完全に無意識の行動だったが、その無意識を褒めてやりたくなった。
「……ありがとう、おにいたま」
「ぁ、ぁ……」
 それにしても痛い。息をするのも難しいぐらいだ。しばらくは立ち上がれそうにない。
 仕方なく俺は、痛みが治まるまでそのままの姿勢で待つことにした。
 ――と、その時、廊下からバタバタと足音が聞こえてきた。
「お兄ちゃんどうしたの!?」
 ゲ……、この声は……。
「お兄、ちゃん……?」
 バスタオル姿の奏が、そこにいた。
 剥き出しの肩に、剥き出しの太股。特に太股は、服を着てる時なら絶対に見られない部分まで顕になっていた。
 しかも今、俺は床に倒れている。つまり奏を下から見上げているわけで、軽く首を動かせば見えてはいけない部分が見えてしまうという、かなり危うい状況だった。
「お兄ちゃん、何してるの……?」
 奏にそう言われて、ようやく俺は自分自身の状況に気を回すことができた。
「…………ぁ」
 床に倒れる俺と久遠。久遠を庇うために回した俺の手は、パッと見には俺が久遠を抑えつけてるように見えるだろう。
「……ぁ、あ……、これ、は……」
 説明したいが、まだ痛みが続いてるせいで上手く口が回らない。
「お兄ちゃんが……お兄ちゃんがついに女の子に手をだしちゃった! 口先だけのヘタレだと思って安心してたのに!」
 嫌な信頼のされ方だった。
「違うよ!」
 久遠が俺の腕の中で決然と言い返した。
「お兄ちゃんはただ、ななちゃんとかなでちゃんのお風呂を覗こうとしただけだよ! ボクが止めて、そしたらこうなったんだよ!」
「お風呂を覗かない代わりに……ってこと?」
 誤解されてる。盛大に誤解されてる。
「と、とにかく、お兄ちゃんと久遠ちゃんは、すぐに離れて!」
「う、うん……。だけど、おにいたまが放してくれなくて……」
「もうっ、何してるのお兄ちゃん!」
 奏が俺たちの前にしゃがんで、久遠を強引に引き離した。
 しかし、その拍子に……
「あ、かなでちゃん……」
「え?」
 奏の身体を隠していたバスタオル。その結び目が、はらりと解けて……
「あ」
「ひゃっ」
「…………」
「カナデ? いくら悲鳴が聞こえたとは言え、せめて服ぐらいは着て……」

「きゃあああああああ!!」

 かつてない大音量の悲鳴と共に、俺の両頬に往復ビンタがお見舞いされた。さっき倒れた時の痛みもまだ冷めきってないのに……。いったい俺が何をしたって言うんだ。
「……私がライバル宣言をした途端に攻めに入るなんて、カナデもなかなか油断できない」
「せ、攻めとかじゃなくて……。きゃあ! きゃあああ!!」
「か、かなでちゃん。ビンタはもうやめたげてっ。おにいたまが死んじゃうよ」
「最期にカナデの裸を見られたんだから、あにうえも本望だったと思う」
「おにいたまはまだ死んでないよ!」
「きゃあああああ!!」

 ああ、俺は幸せだなあ。
 本当に幸せだ。
 奏が泣いて、那奈が泣いて、久遠が泣いて、もう二度と笑い合えないんじゃないかって、そんな心配をした時もあったけど。
 だけど今は、誰も欠くことなく、みんなでこうしてここにいる。
 本当に、俺は幸せだ。

「大変! 顔がこんなに腫れてるのに、おにいたま笑ってるよ! きっと頭がヘンになっちゃったんだよ!」
「確かにある意味大変かも。そっちに目覚められたら私としても困る。……今度、勉強しとかないと」
「……那奈ちゃんは、いったい何を勉強するつもりなの?」
「何ってそれは…………内緒」
「どうしよう! おにいたまが起きないよ!」
「大丈夫。カナデがもう一度脱いだら、きっと起きる」
「やだよ!」
「口では嫌だと言いながらも、ゆっくりと服を捲り上げるカナデ」
「捲り上げてないよ!」
「あー、なにしてるのカナデー。そんなことしたら、あ、あー、だめー」
「やめてー! 変なこと言わないでー!」
「あ、おにいたまがちょっと反応したよ!」
「本当に効果があるとは。さすがあにうえ」
「ち、違うよ! お兄ちゃんは那奈ちゃんの言葉に反応したわけじゃないよ! …………………………多分」
「なんだか、キスしたら起きそうな気がする」
「何言ってるの那奈ちゃん!」
「……大丈夫、嘘だから。寝てるところを無理やりなんてしない。どうせやるなら、起きてる時」
「起きてる時もだめ!」
「おにいたま、きすしたら起きるの? それじゃあ……」
「あ」
「あ」
「ちゅ」

「「あーーーーーーっ!!」」

「やっぱり起きないよぉ……」
「あにうえのファーストキスが……」
「許さない……。よくも、よくも瑛太くんの唇を!」
「え、え、か、かなでちゃん?」
「あ。ついにカナデが本性を現した」
「よくもォォーー!!」
「へ? ふにゃあああ!!」
「子供だったら許されると思うなよ! 可愛ければ許されると思うなよ!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「カナデが、クオンにお尻ペンペンしてる。パンツも脱がして、生でペンペンしてる」
「そこ! 瑛太くんの耳元で大嘘つくな!」
「でも、当たらずも遠からず」
「うぅ……かなでちゃん、ゆるしてよぉ」
「許さない! 唇についた瑛太くん成分を全て吸い尽くすまで許さない!」
「ふぇっ? むぐっ。ーー! ーーっ!」
「うわあ……。カナデ、すごい……。うわあ……」
「……ぷは! はぁ、はぁ……。っ、ぐすっ、ひ、ひどいよぉ……」
「これで済んだだけマシでしょ!」
「お風呂でも思ったけど、カナデは絶対にレズのケがある」
「レズなんかじゃないよ! 私はちゃんとお兄ちゃんが好きだもん!」
「あ、口調が戻ってきた」
「おにいたま、早く起きてよぉ……。ボクもういやだよぉ……」
「さっきから見てると、やっぱりえっちな話に反応してる。変態だけあって」
「え、本当?」
「うん」
「じゃあ、もっとエッチなことをしたら、起きるかな……?」
「…………」
「…………」

 ぼそぼそと話し声が聞こえる。
 意識は戻ったものの、完全に起きるタイミングを見失ってしまった。俺は仕方なく、状況が変わるまでこのままで待つことにした。
「よし、決まりだね」
「……うん。オーケー」
「ほ、ほんとにこんなことしていいの?」
 何かが決まったのか、3人が相談をやめた。なんとなくだが、周りを取り囲まれてるような気がする。
「それじゃあ、せーのでいくよ」
「あ、あの、でも……」
「クオン、もうごちゃごちゃ言わない」
「あ、うん、ごめん……。わかった」
「いいね? いくよ。せーのっ……」

      (お兄ちゃんと呼んでくれ 完)

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